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増上寺に眠る6人の徳川将軍家墓所を尋ねました‼️

午後から、東京都所有の視察船「新東京丸」で東京港一周する前の午前中に、増上寺参拝に向かった。ここに徳川家墓所があり、徳川6代の将軍が埋葬されていて、今は、火曜日以外は、自由に参拝することが出来る様になったので行った。昭和20年の空襲で以前にあった、国宝の霊廟がことごとく焼失してしまったので、今は、墓石のみとなってしまった。しかし、墓所域は小さくなってしまったが、徳川時代の雰囲気は残されている気がする。ぜひ、ヨリミチをオススメする。

Contents

徳川家墓所を特別拝観してきました

増上寺について

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。
その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。

  • 名称三縁山広度院 増上寺
  • 宗旨・寺格浄土宗 大本山
  • ご本尊阿弥陀如来・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)

徳川家康

江戸時代から明治時代、
昭和の増上寺

17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、とても大きな寺でした。
当時は、3000人以上の学僧のお念仏が、全山に鳴り響いていたと言われています。
苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たします。
それ以後も、次々と諸堂宇を完成させています。

 

増上寺大門、80年ぶりの大改修が完了

「増上寺の表門である現在の大門は、旧大門の老朽化のため、昭和12年東京都によって旧大門の意匠を踏襲し1.5倍の大きさの高麗門、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されました。昨年3月東京都から増上寺に無償譲与されたのを機に、増上寺では耐震調査を行い、11月から耐震補強・外観化粧直しの改修工事を進め今年の3月末竣工し、見事に壮麗な門が蘇りました。

三解脱門(さんげだつもん)

増上寺の表の顔として、道行く人々に威風堂々とした姿を見せる三解脱門(三門)。元和8年(1622)に建立された。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。三解脱門とは3つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。

堂宇の配置

大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表しています。
三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、ご本尊である阿弥陀仏が鎮座し、西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴です。
そのため、増上寺の大殿の荘厳は、極楽の世界を視覚的に表現した造りになっています。

大殿までの道のり

  • 大殿に登る階段…25菩薩をあらわし、25の階段となっています。
  • 参道から大殿前に至る階段…18段。阿弥陀仏の本願、第18願。
  • 三門から大殿…距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。
  • 大門から三門…約108間。三門をくぐり108の煩悩から解脱します。

水盤舎

鐘楼堂

     

勝運を招く黒本尊(くろほんぞん)

恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、勝運、災難除けの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名といわれています。

皇女和宮像

徳川歴代将軍の位牌

徳川将軍家墓所入口

水子地蔵群

旧徳川家霊廟

六人の将軍が眠る徳川将軍家墓所

鋳抜門

増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられています。

墓所には各公の正室と側室の墓も設けられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮様も含まれています。

現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

鋳抜門(いぬきもん)旧国宝

文昭院殿霊廟(徳川6代将軍家宣公)の宝塔前にあった中門であったものを移築したもの。

徳川家墓所

明治期の増上寺御霊屋図

旧増上寺御霊屋

二代秀忠【台徳院殿(たいとくいんでん)】

秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、二代将軍に就任しますが、将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去しました。
大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、霊廟が順次造営されました。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋をつくしたものでしたが、惜しくも木造のため戦災で焼失しています。

七代家継 【有章院殿(ゆうしょういんでん)】

家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられました。
廟は文昭院殿廟に並んで造営されました。

九代家重 【惇信院殿(じゅんしんいんでん)】

吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11(1761)年、51歳で逝去しました。
調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたということです。

十二代家慶 【慎徳院殿(しんとくいんでん)】

家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍となります。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなります。
嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去しました。

六代家宣【文昭院殿(ぶんしょういんでん)】

綱重公の子として寛文2(1662)年に出生。宝永6(1709)年将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげますが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2(1712)年、51歳の生涯を閉じました。

増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟ですが、参詣した永井荷風は、荘重美麗な外観への驚きと神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、その著「霊廟』の中で「広大なる此の別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白しています。

十四代家茂【昭徳院殿(しょうとくいんでん)】

紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年、将軍家の養子となり十四代将軍となりました。
しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まりましたが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えます。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去しました。
慶長2(1866)年、享年21でした。

合祀(ごうし)塔

現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されています。
なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。

静寛院和宮

十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁しました。
家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じました。
没後遺体は京都へ戻すよう沙汰がありましたが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られました。

二代将軍秀忠(台徳院殿)の灯籠寄進者

酒井忠勝

[生]天正15(1587).三河
[没]寛文2(1662).7.12. 江戸
江戸時代初期の大老。忠利の子。幼名は鍋之助,与七郎。入道して空印と号した。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに徳川秀忠に従って出陣。同 14年讃岐守となり,同 19年下総国で 3000石を領し,元和8 (22) 年 7000石を加増されて深谷城主となった。寛永1 (24) 年老中となり,2万石を加え,同3年武蔵国忍 (おし) 5万石に封じられた。翌4年同国川越で8万石,同9年 10万石を領し,従四位下侍従となり,同 11年には若狭国小浜 (おばま) 12万 3000石に封じられた。同 15年大老となり,翌年左少将に昇任明暦2 (56) 年致仕した。『日本王代一覧』『日本帝王系図』などの編纂物がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

六代将軍家宣【文昭院殿(ぶんしょういんでん)】の灯籠寄進者

本多 忠籌(ほんだ ただかず)

江戸時代中期の大名江戸幕府老中格陸奥泉藩の第2代藩主。忠以系本多家5代。寛政の三忠臣の一人と称される。

生涯

元文4年(1739年)12月8日、泉藩初代藩主本多忠如の長男として江戸下谷藩邸で生まれる。宝暦4年(1754年)8月29日、父の隠居家督を継ぐ。同年12月に従五位下弾正少弼に叙位任官される。天明7年(1787年)、若年寄に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられる。5月1日には従四位下弾正大弼に昇叙する。以降、松平定信松平信明とともに寛政の改革を推進していくことになる。寛政2年(1790年)4月16日には老中格に任ぜられて、侍従に任官した。また、5000石を加増されて城主格になった。

好学の大名であり、佐藤玄明窩佐藤信淵の父)に経世済民の学を学び、藩政統治に生かそうとした。また、中沢道二石門心学を学び、善教舎を開設して人心の教化育成に努めた。また、心学を通じて松平定信と親交が生まれることになる。飢饉用の備蓄庫である郷蔵を設置し、堕胎を禁止した。

寛政の改革における幕政に参与し、閣内においては早くから国防の必要性を痛感し、最上徳内の「蝦夷草紙」に影響を受け、蝦夷地を幕府直轄地とし、開拓を進めてロシア南下政策に対抗すべしと主張した。この主張は蝦夷地は旧来どおり松前藩に統治させるべしとする定信に容れられず、彼の在任中には実現しなかったが、退陣後の文化8年(1811年)に蝦夷地の天領化が実現している。

寛政5年(1793年)7月、徳川治済の賛同のもと、独裁傾向を強める定信の老中解任を実現した。それに伴い老中勝手掛の月番制を導入した。寛政10年(1798年)10月10日、老中職を辞任した。寛政11年(1799年)10月23日に家督を庶長子の忠誠に譲って隠居する。嫡子に次男の忠雄がいたが、忠雄が21歳のときに廃嫡したため、庶子の忠誠に家督を継がせたのである。文化9年(1812年)12月15日に病死した。享年74。

 

九代将軍家重 【惇信院殿(じゅんしんいんでん)】の灯籠寄進者

井上 政重(いのうえ まさしげ)

 

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名下総国高岡藩初代藩主。江戸幕府大目付。高岡藩井上家初代。

経歴

天正13年(1585年)、徳川家康の家臣・井上清秀の四男として遠江国で生まれる。

寛永4年(1627年)12月29日、従五位下・筑後守に叙任。同9年(1632年)12月17日、江戸幕府の大目付(当時は総目付という名称)となる。幕府のキリシタン禁教政策の中心人物であったが、自身も元キリシタンであったとされる。下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設として使用された。脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る。寛永15年(1638年)に起きた島原の乱には上使として九州に赴いた。

寛永17年(1640年)6月12日、1万石を領し大名に列し下総高岡藩の藩祖となる。同20年(1643年)5月23日、3千石を加えられる。正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図正保郷帳の作成を命じた。

万治元年(1658年)閏12月8日、職を辞す。

嫡男・政次は早世したため、政次の嫡男である政清に万治3年(1660年)7月9日、家督を譲って隠居し幽山と号した。万治4年(1661年)2月27日、死去。享年77。

十二代家慶 【慎徳院殿(しんとくいんでん)】灯籠寄進者

建部 政民(たけべ まさたみ)

11年(1698年) – 安永8年8月18日1779年9月27日))は、播磨国林田藩の第5代藩主

第4代藩主・建部政周の長男。母は建部光成の養女(河野通房の娘)。正室は板倉重同の娘。子に建部長教(長男)、建部政賢(四男)、娘(米津政崇正室のち秋田季道正室)、娘(板倉勝該室)、娘(本多政寛正室)、娘(本多紀智正室)、娘(大嶋義勝室)。官位は従五位下、丹波守。幼名は久米之助。内膳。初名は政就

享保17年(1732年)9月23日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月16日、叙任する。

宝暦12年(1762年)6月24日、長男・長教に家督を譲って隠居し、安永8年(1779年)8月18日に82歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院

   

増上寺へのアクセス

●JR山手線・京浜東北線東京モノレール 浜松町駅より徒歩10分。

都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅より徒歩6分。

都営地下鉄三田線 御成門駅芝公園駅より徒歩3分。

 

 

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

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