1. TOP
  2. 「挿絵で読む平家物語」ただ今、竹橋の国立公文書館で開催中📖

「挿絵で読む平家物語」ただ今、竹橋の国立公文書館で開催中📖

久しぶりに竹橋の「国立公文書館」で行われている「平家物語」展にヨリミチした。公文書館で江戸時代の徳川将軍の蔵書を納めた、紅葉川文庫を公文書館が引継ぎ、今回の展示資料となったもの。写真で資料を撮るのが難しく、たまたま挿絵が写真撮影に適していたので挿絵の平家物語とした。公文書館は、自分の貴重な資料を展示して、且つ無料入場して見せてくれる、私にとって有り難い知識の泉である。ぜひ、ヨリミチをお勧めします。

「平家物語」妖しくも美しき

国立公文書館で開催中 入場料無料     ー7/21(土)〜 9/1(土)までー

『平家物語』は、治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱を背景に、平家一門の栄華から滅亡までを描いた軍記物語です。
本展では、当館が所蔵する貴重な写本・版本をもとに、『平家物語』に登場する天狗・怨霊・物怪(もののけ)などに注目し、武士たちの物語の背後にある妖しくも美しい世界をご紹介します。

国立公文書館全景

平清盛

平清盛公

 

「平家物語」とは?

 

盲目(7/21〜8/4)

琵琶の伴奏で経文を語り、または物語を謡うことを生業としていた。鎌倉時代中期以降、「琵琶法師」と呼ばれ「平家物語」を語り継ぎました。

巫女(8/6〜8/18)

巫女も日本各地を漂泊しながら物語を謡っていたと考えられていた。

秘閣粘葉本「平家物語」

挿絵(さしえ)で読む平家物語

物語は平家一門の絶頂期から始まる。

鹿ケ谷事件

安元3 (1177) 年5月,藤原成親,師光 (西光) ,成経,僧俊寛ら後白河院の近臣が,京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で行なった平氏討滅の密議が発覚した事件。平清盛を中心とする平氏政権の強勢に対して,これを倒そうと志した後白河院の意を受けて,上記4人のほか,近江中将成正,山城守基兼,式部大輔雅綱,平康頼,平資行らが参加し,摂津源氏多田行綱北面の武士の武力に頼って清盛討滅を企てた。しかし行綱の密告により,清盛は福原から上洛して一味を捕え,師光を死罪にし,成親を備前に,成経,俊寛,康頼を鬼界ヶ島に配流した。

(ブリタニア百貨辞典より一部転載)

以仁王の挙兵

後白河法皇の皇子の以仁王と源頼政が共謀して、王位奪回と打倒平家を企て、全国の源氏に平氏追討の令旨を発する。
源頼政は令旨を、源義朝の弟の新宮十郎行家(源行家)に全国の源氏へ配らせる。
以仁王の令旨が発覚し、平清盛は頼政一族が関わっていると知らず源兼綱に以仁王追補を命令するが、兼綱は以仁王を三条高倉殿から園城寺(滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山)へ逃す。

頼政は嫡子の仲綱以下一族の軍勢を率いて以仁王と合流、反平氏の旗色を明らかにするが、平等院(京都府宇治市)の近くで平知盛や重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り攻め込んだ為、数の少ない頼政軍は次々と討ち死にした。
源兼綱、源仲綱、源仲家、源仲光ら討死。
頼政も傷を負い平等院の内に入り自害。
以仁王は奈良へ落ちる途中、藤原景家の軍勢に討たれた。

頼朝挙兵

運のいい頼朝と義経

平治の乱で父源義朝が殺され、嫡男義平は打首となった。 頼朝は、平氏の法務の専門家が割り振った結果、伊豆国に決まった。ここは摂津源氏 源頼政の知行国である。流人である頼朝が危険な目に合うことは少ない。 土佐国へ流された五男希義は平氏の家人に殺されている。

また、源頼政の甥深栖頼重は、下総国の荘園下河辺荘の高野館に帰るとき、 源義経をその行列に紛れこませて、奥州の藤原秀衡に送り届けている。

源有綱の逃亡

源頼政は、平氏打倒の以仁王の挙兵にしたがい、橋合戦で討死した。 伊豆国は20年近く頼政の知行国だったから、平清盛は、頼政の孫源有綱が伊豆にいて、反乱を起こすことを心配した。 そこで有綱追討のため大庭景親を帰国させた。有綱はこれを聞き奥州へ逃れた。有綱は後に平氏討伐に加わる。

以仁王の綸旨頼朝へ

有綱がいなくなった伊豆国で、源氏の武家の棟梁となったのが、流人の源頼朝である。以仁王の令旨が頼朝に届けられた。 届けたのは、八条院蔵人源行家だった。治承4年4月9日(4月28日と言う説あり)に京を立ち、治承4年4月27日(5月10日と言う説あり)には、 伊豆の北条館を訪れ、源頼朝に令旨を渡したという。

蜂起した理由

1、国司が源氏から平氏に代わった。治承4年(1180)6月、 源頼政に代わって伊豆国の国司になったのは、平清盛の義理に弟、平時忠である。目代は 伊豆国にいた山木兼隆だった。伊豆は平氏の知行国であった。

2、治承4年6月末、三浦義澄千葉胤頼大番役の帰路、 頼朝の館に立ち寄り、平氏の世は長く続かないと感じて蜂起を促した。

3、三善康信が、平氏が以仁王の令旨の配布先を調べている。源氏狩りが始まるので、奥州に逃げるように、と知らせてきた。

4、以仁王の令旨を受け取ったことで追討されることをおそれた。

5、治承4年8月末には、平氏は大庭景親を有綱追討のため大庭景親を帰国させた。

以仁王の令旨が頼朝に届けられた後、静観していた頼朝だが治承4年8月17日、三島大社の祭礼で手薄な目代山木兼隆の屋敷を襲った。 なぜなら伊豆国を実質的に支配していたのは、遥任国司である平時忠でなく目代の山木兼隆だからである。 この時は、すでに5月24日に以仁王は討たれていた。

人数

この時の頼朝の兵力は、源平盛衰記では90騎である。30騎以下という説もある。 北条氏から時政(43歳)、嫡男宗時(不明)、義時(18歳)、平六時定(36歳)の4人であった。

忘れられた源頼朝

京都に最初に届いた報告は、「伊豆国の流人で、源義朝の子」とされ、頼朝は名前も忘れられている、といわれる。 一方平家物語によれば、治承4年9月2日源頼朝の挙兵を大庭景親が早馬で知らせた。

南都焼討

南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡平氏軍が、東大寺興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

清盛の死

『平家物語』では、清盛の症状を以下のように書いています。

清盛は、発病の日から水も喉を通らず、身体の熱さは、まるで火を焚いているようだ。

また、清盛が休んでいる7~9m以内に入る者は、その熱で熱くてたまらないという。

そこで、比叡山から汲んできた水を石の風呂に入れ、浸かって身を冷やすそうとするが、水は沸きあがり、お湯になってしまった。

今度は、筧の水を身体に注ぎかけると、焼け石に水をかけるように、水が蒸発してしまい水がかからない。

少し身体に水がかかっても、炎となって燃えるので部屋中が黒煙でいっぱいになった。

そして、清盛は4日もの間、悶え苦しみ、ついには亡くなった。

その症状から、「マラリア」「インフルエンザ」「猩紅熱」「脳内出血」「肺炎」などの死因説があります。

木曽義仲の快進撃

〈源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生(源)義賢の二男である。義賢は、去る久寿二年八月、武蔵国の大倉の館で、鎌倉の悪源太(源)義平主に滅ぼされた。その時、義仲は三歳の幼児であった。乳母の夫である中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ、義仲を育てた。成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を討って家を興そうと考えていた。そこで、前武衛(源頼朝)が石橋で既に合戦を始めたと耳にし、すぐに挙兵に加わり念願の意志を表そうとした。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 
 源行家が以仁王の令旨を伝えた源氏のなかに、木曽(源)義仲がいた。頼朝や義経のいとこである。義仲がまだ幼かったとき、父の義賢(義朝の弟)が武蔵国大蔵館(埼玉県比企郡)において殺されるという事件があった。襲撃してきたのは、義平(義朝の長男で、頼朝の兄)。原因は、北関東で勢力をのばしていた義賢と、南関東で力をつけていた義朝、義平父子との東国での勢力争いにあった。命が危うくなった遺児の義仲は、畠山重能と斉藤実盛の助力によって信濃国木曽の豪族である中原兼遠に預けられた。そして、兼遠の子である樋口兼光、今井兼平、巴御前などと一緒に成長する。
義仲は1180年8月の頼朝挙兵に続いて9月に信濃国で挙兵。翌年6月に北信濃の横田河原で越後国の城氏を破る。義仲のもとには墨俣川の合戦で敗走した行家や、鎌倉の頼朝を攻撃しようと企てて敗れた志田義広などの叔父たちが頼って身を寄せた。そして互いの父同士がそうであったように、頼朝と義仲との関係は悪化していた。だが、平家追討を前に源氏同士の争いを避けるべく、義仲は子の義高を頼朝の娘大姫の婚約者として(実際は人質として)差し出すという苦渋の決断をする(のちに義高は殺される)。関東をあきらめた義仲は、北陸道からひたすら都を目指すことになったのだった。そして次なる決戦の地、倶利伽羅峠へと向かう。平家の大将軍には、維盛(清盛の孫)。『平家物語』によると、義仲を討伐するために10万余騎の大軍を率いて北陸に進軍してきていた。
 
(湘南ジャーナルから掲載)

平家都落ち

平家物語 「忠度(ただのり)の都落ち」 現代語訳

[原文]

薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、
この二、三年は京都の騒ぎ、国々の乱れ、
しかしながら当家の身の上のことに候ふあひだ、
疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
君すでに都を出(い)でさせ給ひぬ。
一門の運命、はや尽き候ひぬ。
撰集(せんじふ)のあるべき由承り候ひしかば、
生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)らうど存じて候ひしに、
やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、
ただ一身の嘆きと存ずる候(ざうら)ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。
これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、
一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、
遠き御守りでこそ候はんずれ」
とて、日ごろ、詠み置かれたる歌どものなかに、
秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたる巻物を、
今はとて、打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、
鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。

[現代語訳]

忠度がおっしゃるには、
「数年来、和歌のご指導をいただいてから、(和歌のことは)粗略にお思いすることはありませんが、
この二、三年は、京都での騒ぎや、国々の乱れがあり、
すべて当家(=平家)の身の上のことですので、
和歌をおろそかにはしなかったのですが、変わらず参上することもできませんでした。
わが君(=安徳天皇)はすでに都をお出になられました。
平家一門の運命は、もはや尽きました。
勅撰集の編纂があるだろうことを伺いましたので、
生涯の名誉に、一首なりともご恩を被って入れていただこうと存じておりましたが、
たちまち乱が起こって、勅撰集のご沙汰もなくなってしまったことは、
(私にとって)ただただ大きな嘆きと存じております。
世が鎮まりましたならば、勅撰集のご命令が出されることでしょう。
ここにございます巻物の中に、ふさわしいものがございましたら、
一首であってもご恩を被って入れていただけまして、草葉の陰でも嬉しいと思えましたら、
遠いあの世からあなたをお守りしたいと思います」
とおっしゃって、これまで詠みおかれた歌の中で、
秀歌と思われるものを百余首書き集められた巻物を、
今が最期の門出だと出発なさったとき、これを手に取って持ていたが、
鎧の合わせ目から取り出して、俊成卿に奉った。

木曽最期

寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた[注釈 1]。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。

戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」[31]と評した。享年31。

義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名木曾氏は義仲の子孫を自称している。

(ウイキペディアから一部転載)

富士川の戦い

治承4 (1180) 年 10月 20日富士川下流の現在の富士市にあたる岸で行われた源平合戦 (→治承の内乱 ) の一つ。源頼朝征討のために京都から東進した平氏軍と鎌倉から西進した頼朝の軍勢とが戦った。平氏軍は水鳥の羽音を敵の大部隊の襲来と誤認して逃走したと伝えられる。頼朝はこの勝利によって,以後根拠地関東の支配を固める余裕を得た。

(ブリタニカ百貨辞典から転載)

一の谷の戦い

寿永3 (1184) 年2月7日,摂津国一ノ谷で行われた源平合戦 (→治承の内乱 ) の一つ。源義仲の攻勢に西国に敗走した平氏軍は,京都を回復するため東上,摂津福原に陣取った。この地は北は山,南は海,東西は生田の森と一ノ谷とを城戸口とした要地であった。源頼朝の命で上京した源範頼義経兄弟は義仲軍を破ったのち,後白河法皇の平氏追討の院宣を得て福原へ向った。範頼軍は生田の森へ進軍し,義経軍は精兵を従えて一ノ谷の背面に達した。7日早朝,法皇の休戦申入れの報を真に受けた平氏が油断したところをついて総攻撃をかけた。有名な義経らの鵯越 (ひよどりごえ) の逆落しの急襲で源氏軍が大勝し,平氏は海上に敗走した。

(ブリタニカ百貨辞典より転載)

屋島の戦い

1185年(文治1)2月、讃岐(さぬき)国屋島(高松市)で行われた源平の合戦。平氏一門は、1年前に一ノ谷の戦いで敗れはしたが、なお瀬戸内一帯の制海権を温存していた。そのため山陽道を進んだ源範頼(のりより)麾下(きか)の源氏軍に戦果乏しく、鎌倉の源頼朝(よりとも)は再度源義経(よしつね)を登用、敵の本営屋島を衝(つ)かせることとした。義経は2月18日未明、暴風に乗じて摂津渡辺(大阪市浪速(なにわ)区)を解纜(かいらん)、同日早朝阿波勝浦(あわかつうら)(徳島市)に上陸(発着日等に異説がある)、19日には一気に屋島を攻略した。21日平氏軍はいったん志度浦(しどうら)(香川県さぬき市)に退いたのち、海上を長門(ながと)に逃れた。これを契機として、熊野(くまの)、河野(こうの)などの有力水軍の参加を得た源氏軍は、平氏方より制海権を奪取、きたるべき壇ノ浦の海上決戦に備えることとなった。[杉橋隆夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

壇ノ浦の戦い

1185年(文治1)下関(しものせき)市東方の壇之浦で行われた源平最後の海戦。この年2月屋島(やしま)の戦いに敗れた平氏の総帥宗盛(むねもり)らは、長門彦島(ながとひこしま)(下関市)に拠(よ)る平知盛(とももり)の軍と合体、九州の源範頼(のりより)軍に背後を牽制(けんせい)されつつも、500余艘(そう)の兵船をもって、源義経(よしつね)率いる840余隻の船団を迎撃せんとした。3月24日正午開戦、初めは東進する潮流にのった平氏方が有利だったが途中から逆潮となり、午後4時ごろ平氏軍の敗北・滅亡が決定、と解するのが通説である。しかし、開・終戦時刻、したがって潮流の戦闘に及ぼした影響などについては異論もある。安徳(あんとく)天皇は海底に没し、一族のほとんども失命したが、建礼門院(けんれいもんいん)は救助され、宗盛父子は生け捕りののち斬(き)られた。[杉橋隆夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

アクセス

〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園3番2号
電話:03-3214-0621(代表) FAX:03-3212-8806
東京メトロ東西線竹橋駅下車[ 1b出口] 徒歩5分

 

国立公文書館

\ SNSでシェアしよう! /

よりみち | 日帰り旅行やハイキング・散策のサイトの注目記事を受け取ろう

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

よりみち | 日帰り旅行やハイキング・散策のサイトの人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

  • 国営ひたち海浜公園のコキアが真っ赤に色づいています🍁

  • 2018佐倉コスモスフェスタ開催中❗️オランダ風車を背景に50万本を超えるコスモスが満開です🌼

  • 増上寺に眠る6人の徳川将軍家墓所を尋ねました‼️

  • 伊能忠敬30年過ごした❗️「佐原の町並みと小野川沿い」をブラリ散策👟

関連記事

  • 原子力航空母艦ロナルド・レーガン停泊中の横須賀港にヨリミチ🚣‍♀️

  • 五穀豊穣の穀類がわかりやすく植えられている歴博付属「くらしの植物苑」🌾

  • 満開の🌸北の丸公園!とっておき隠れスポットを、こっそり教えます🌸

  • 強力なパワースポットを探しに皇居東御苑をよりみち‼️

  • 特別名勝 「六義園 」和歌の心意気づく大名庭園🍁

  • 京成臼井駅〜京成佐倉駅まで2時間12000歩👟超健康ミニハイキング完歩🍁