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  2. 第2回「佐倉道を歩く会」葛飾八幡宮〜京成西船駅まで歩く②👟

第2回「佐倉道を歩く会」葛飾八幡宮〜京成西船駅まで歩く②👟

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第2回「佐倉道を歩く会」の後半、葛飾八幡宮から京成西船駅までのコース。国の天然記念物に指定されている「千本公孫樹」がある葛飾八幡宮の境内にあり、源頼朝や太田道灌、徳川家康も崇拝したと言う由緒ある葛飾八幡宮⛩を参拝して、日蓮宗大本山法華経寺にも立ち寄り。その広大な境内に、総門、仁王門を通り、法華経寺祖師堂で参拝したが、ゆっくり境内を見れば半日は、充分かかる建物の概要である。今度、葛飾八幡宮、法華経寺を単独でまた来たいと思った👟



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「佐倉道を歩く会」葛飾八幡宮、正中山法華経寺を参拝👟⛩②

今回のコース

葛飾八幡宮ー八幡不知森ー東昌寺ー正中山法華経寺ー庚申塔(文政6年)ー旧栗原本郷ー庚申塔・無線電信所道標ー京成西船駅



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葛飾八幡宮⛩

寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって、京都石清水八幡宮を勧請したものです。武神として古くから源頼朝、太田道灌、徳川家康など武人の崇敬を集めました。
 そして明治維新までは、天台宗の八幡山法漸寺が別当寺として管理していましたが、廃仏毀釈によって廃寺になりました。社殿の前の鐘楼は往時を物語る遺物です。
 また山門に安置されていた仁王像は行徳の徳願寺に移され、その後には左大臣、右大臣の像が置かれて随神門と呼ばれるようになりました。ほかに「千本公孫樹」「元亨の梵鐘」などがあります。
 祭礼は9月15日から6日間にわたり行われ、そのとき俗に「八幡のぼろ市」と呼ばれる近郷に名高い農具市がたちます。また、2月の初卯祭は湯立て神事、宮司舞などをもって祭事が進められる、異色ある祭りです。
(『市川散歩NO.2 八幡・曽谷・大野』市川市教育委員会より)



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葛飾八幡宮案内図⛩

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葛飾八幡宮

平安時代に創建され、”八幡”の地名の起こりにもなった由緒ある神社。
玉垣の中には、源頼朝駒どめの石、千本いちょう、梵鐘、力石などの見どころがある。
葛飾八幡宮の境内は、「八幡のぼろ市」が開かれることで有名。昔は、見世物小屋やサーカスなども行われた。境内には、岡晴夫歌碑、野外彫刻(藤野舜正作、大須賀力作)、八幡音頭歌碑、小林一茶句碑などがある。

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源頼朝公 駒どめの石

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千本公孫樹

葛飾八幡宮の本殿に向かって右手の瑞垣の中に、注連縄(しめなわ)を張った神木として樹勢盛んに繁っています。「千本公孫樹」の名は、落雷によって地上6メートルのところで折れた太い幹を囲んで、多数の枝が根元から立ち上がっているためにつけられたものです。樹高23メートル、根回り10.2メートル、目通り幹囲10.8メートルで、根回りより目通り幹囲のほうが太くなっているのもこのイチョウの特徴です。枝は東側に12.3メートル、南側に12メートル張り出し、西側と北側は社殿に接するために伸びが抑えられています。
 イチョウは雄株と雌株がありますが、この木は雄株のため果実はつけません。
 
 古くから知られた巨樹であり、 『江戸名所図会』 (えどめいしょずえ)にも「神前右脇に銀杏の大樹あり神木とす。此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼のとき、音楽を奏す。其の時数万の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす」
 との記述がみられます。



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隋神門

木造で、正面柱間3間、奥行柱間2間の八脚門です。屋根は単層茅葺の構造を持った切妻型でしたが、昭和54年の改修により銅板葺になりました。丹塗で桁行10.36メートル、梁行4.45メートルあります。かつては天台宗上野寛永寺の末寺・八幡山法漸寺が別当寺として八幡宮を管理していたため、仁王像の置かれた仁王門でしたが、明治維新の際の神仏分離によってこの仁王像は行徳の徳願寺に移され、現在は左大臣・右大臣を配した葛飾八幡宮の随神門となっています。
 
 この門の特色は、柱や梁、軒を支える組物に太い部材が使われていることです。かえる股も巨大であり、その内部には雲に龍、竹に虎などの彫刻がはめ込まれています。門全体の様式は幕末の特徴を示しており、門前にある狛犬の安政2年(1855)再建の銘からもそれがうかがえます。
 
 なお、経年により塗装が劣化したことから、平成28年4月から8月にかけて、境内地内整備工事の一環として門の塗替え工事が行われました。ベンガラ色に塗り直され、美しくなった随神門が参拝者を迎えています。



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葛飾八幡宮御祭神⛩

東御前
息長帯姫命(神功皇后)

おきながらたらしひめ 仲哀天皇の皇后で、応神天皇の御母です。武内宿禰と議り懐胎の御身をもって男装して海を渡り、新羅を征せられた後、筑紫に凱旋し、無事応神天皇をお生みになりました。この御事蹟から、武運・安産の神として尊崇されました。

中御前
誉田別命(応神天皇)

ほむだわけのみこと 仲哀天皇の皇子で、御母は神功皇后です。天皇は深く内外の政治に大御心を用いられ、文学を奨励し、数多くの地溝を開き、灌漑の便をお計りになられたことから、厄除開運の御神徳と共に、わが国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められました。

西御前
玉依姫命

たまよりひめのみこと 鵜葺草不合命の后、初代の天皇であらせられる神武天皇の御母神で、婦道に御功績が多く、育児の神として信仰されています。

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葛飾八幡宮御由緒⛩

御創建は平安朝の昔、寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願により下総の国総鎮守八幡宮として御鎮座、以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰深く、下総の国における葛飾文化、八幡信仰の中心となり、なかでも平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復後、徳川家康の御朱印地社領52石の寄進等その尊信は篤いものでありました。また、御主神応神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、殊に農業守護の神として近郊の信仰をあつめております。毎年9月15日の御例祭日より20日まで、広大な境内で催される農具市の盛況さは、古来より関東一と称されています。
(『下総国総鎮守葛飾八幡宮』より 以下 同パンフレットより引用)

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改耕碑‍

 

市川市域北部の台地と国道14号線との間は、かつての真間の入江跡であり、水はけの悪い湿地の土地柄であった。明治44(1911)年に当時の八幡町を中心に近隣10ヶ村による耕地整理組合が結成され、放水路(江戸川放水路)の新設・排水路の掘削工事・真間溜の改良工事・真間川への揚水機の設置・畦畔区画の変更工事・河川改修による樋門改築工事が実施された。
 
大正8(1919)年8月工事は完成し、真間川流域の排水の促進・須和田・菅野の低地帯の開墾・短冊形への農地の整備がなされ、農地の生産性が上昇していった。
 

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不知八幡森(上記の解説)

江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまな雑樹生じ・・・・」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟があると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入っていけない理由については、
最初に八幡宮を勧請した旧地である。
◆日本武尊が陣所とされた跡である。
◆貴人の古墳の跡である。
◆平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟がある。
◆平将門の家臣6人が、この地で泥人形になった。

と、いろいろ言われてきました。
中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池(ほうじょういけ)」の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に「放生会(ほうじょうえ)」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。「不知八幡森(しらずやわたのもり)」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
放生池のあった場所というのが有力そうですが、はっきりしたことは不明のようです。

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ここまでは入れます。

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森の塀に、子供達が書いたポスターがありました。

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東昌寺

天正年間(1573-92)太誉和尚(たいよおしょう)の創建した寺で、当初は八幡6丁目の冨貴島小学校付近にありましたが、寛永元年(1624)に万明(ばんめい)和尚が現在地に移したものです。墓地内には慶応4年(1868)の戊辰戦争(市川船橋戦争)のため、八幡で戦死した官軍兵士3名を葬った2基の墓石が建てられています。

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真間川の桜並木

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真間川流域の概要

真間川流域は、千葉県の北西部に位置し、標高30mの下総台地に源を発し、松戸、鎌ヶ谷、船橋の各市域の雨水を集めて市川市域で江戸川と東京湾に注ぎます。

流域の面積は約65.6平方キロメートルあり、約43万人もの多くの人々が生活し、川は人々の生活と深く関わっています。

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真間川流域の特性

流域面積 65.6平方キロメートル
地質 台地 関東ローム層
低地 沖積層及び砂丘
土壌 台地 黒ボク土壌
低地 グライ土壌及び黒泥土壌
植生
畑・果樹園・植林
(アカマツ材・ヒノキ材・スギ材)
流域人口 約42万7千人(平成22年度)
市街化率 約67%(平成17年度)
関係市町村 4市(市川市,船橋市,松戸市,鎌ケ谷市)

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真間川流域の総合治水対策

真間川流域では、昭和30年代後半から、都市化の進展に伴う人口の集中により、市街地が著しく拡がり、地表が建物やアスファルト舗装に覆われてしまいました。そのため、畑地や樹林地がもっていた保水機能や、水田がもっていた遊水機能が著しく低下し、降雨時に地中に浸透したり、一時的に水田にたまっていた雨水が、河川に短時間のうちに大量に流れ込むようになり、河川の氾濫により低地を中心に浸水被害が起こりやすくなりました。

 そこで、真間川では、昭和54 年度より「総合治水対策特定河川事業」として、従来進めてきた河道改修や排水機場の整備に加え、調節池や分水路などの「治水施設の整備」を進めるとともに、真間川流域では、保水・遊水機能を都市の中に取り戻すことなどを目的とした「流域における策」として、学校・公園等の公共施設に雨水貯留浸透施設を整備したり、各家庭に雨水小型貯留施設や雨水浸透施設の設置を促すなど、河川への流出抑制に努めた「総合的な治水対策」を進めています。

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坪井玄道

明治・大正期の体操教育者 学校体育の父

生年嘉永5年1月9日(1852年)
没年大正11(1922)年11月2日
出生地下総国東葛飾郡鬼越村(千葉県市川市)
経歴農家の次男に生まれるが、14歳で医学を志し江戸へ出て、洋学所で英語を学ぶ。明治5年東京の師範学校教師・スコットの通訳となり、8年仙台英語学校教師を経て、11年体操伝習所が設立されると、米国人リーランドの通訳となる。その後、自ら同所の体操教師となり、普通体操の普及、戸外遊戯の紹介、体育教員の養成に努めた。19年以後は高等師範学校、高等女子師範学校、東京女子体操音楽学校の教師を歴任。最初の学校体操教授要目を立案するなど“わが国学校体育の父”といわれ、また女子体育にも力を尽くした。著書に「小学普通体操法」「新撰体操書」「戸外遊戯法」など。

 

船橋市のうすい、帆掛け船

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中山法華経寺の参道

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京成中山駅近くの踏み切り

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大本山 正中山法華経寺 黒門 附扁額 (市川市指定有形文化財)

 

中山法華経寺の総門は黒門とも呼ばれ、京成中山駅に続く参道入り口にあります。下総中山駅、京成中山駅から参拝される方が、一番初めに通る門です。
 この門は法華経寺の総門で、全体が墨塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが、赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
 門の形式は高麗門と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉がつけられますが、黒門は門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
 建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五十年程度での取替えが必要なこと、屋根吹替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造はは当初の状態で残っています。
 なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(1793)の刻銘があり、門の附指定です。全体の彩色が施され、文字は浮き彫りになっています。



如来滅後
閣浮堤内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場



 平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート像に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた木鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。
平成二十二年十一月
大本山法華経寺
市川市教育委員会

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本阿弥光悦と仁王門扁額


本阿弥光悦 永禄元年~寛永14年(1558~1637)
安土桃山時代から江戸時代初期の芸術家。京都の人。
刀剣鑑定の名家、本阿弥家分家、本阿弥光二の長男。通称は次郎三郎、のち光悦。号は自得斎、徳有斎、太虚庵。
家業の刀剣研磨、鑑定はもちろん、書、製陶、蒔絵、茶道などにも精通した。書は独自の光悦流を創始し、俵屋宗達などに下絵を描かせた料紙との調和美を誇る和歌を多く書き、近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と並び称された。「金銀泥下絵色紙(奈良市大和文華館所蔵)」は有名。製陶では国宝「楽焼白片身替茶碗(銘不二山)」「楽焼黒茶碗(銘雨雲)」をはじめ、楽焼茶碗に傑作を残した。蒔絵は古典に主題を求めたものが多く、鉛、錫、青貝を使用した国宝「舟橋蒔絵硯箱(東京国立博物館蔵)」が代表作。陶芸・漆芸でも、光悦楽焼・光悦蒔絵の創始者として一家をなす。また、角倉素案らとともに、豪華なひらがな活字本の謡曲「嵯峨本伊勢物語」を刊行した。茶道は初め古田織部を師とし、後に武野紹鴎系統の陀茶に傾倒した。絵画彫刻には確証ある遺品わない。
元和元年(1615)に徳川家康から京都洛北鷹峯の敷地を与えられ、一族、配下の工芸家を集めて芸術村を作った。
孫の本阿弥光甫が記した「本阿弥行状記」に詳しい。

ブリタニカ国際大百科事典
デジタル大辞林
クロニック戦国全史本阿弥光悦筆仁王門扁額 本阿弥光悦筆、法華経寺仁王門の扁額



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日蓮宗大本山 法華経寺

千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれる。山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めている。いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。


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中山法華経寺の歴史

 

日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。

弘安5年(1282年)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。

だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。

日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。



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法華経寺祖師堂(国指定重要文化財)

 

祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中二年(1325)に上棟した小規模な五間堂でした。その後、焼失などのため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝六年(1678)に上棟されたものです。
建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。堂内は、正面の吹き放し外陣、内部の広い内陣、それに両脇の脇人と背面の後陣に区切られています。内外陣境の上部には揚格子、下方には結界と呼ばれる取り外し可能な仕切りを入れ、また内脇陣境にも同様な結界がありますが、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。これらは日蓮宗の仏堂によく見られるj特有の形式です。内陣は本来板葺きですが、現在は畳を敷詰めてあります。天井は格縁天井といい、碁盤目状の縁の部分は黒漆塗りで、天井板には桔梗紋が描かれているほか、内陣周りの上部は極彩色塗りで荘厳にされています。
祖師堂は関東地方では数少ない大型日蓮宗仏堂の典型で、その規模や形式は当時の庶民信仰の動向を知る上での一指標として位置付けられるとともに、建立年代が明確な建造物としても重要です。
昭和六十二年から始まった解体修理は十年の歳月を費やして平成九年に完了し、建立当初の姿に復元されました。
平成十一年三月 市川市教育委員会

祖師堂には日法師作(1259~1341)の日蓮聖人像が安置されています。また、扁額(市指定文化財)は室町から江戸にかけて活躍した書家で工芸家、本阿弥光悦(1558~1637) の筆による。
また、高浜虚子は明治31年に訪れ、祖師堂に腰をおろし物思いにふけった様子が高浜虚子の「中山寺」に描かれています。

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大本山 正中山法華経寺 刹堂

祖師堂奥の小高い丘の上にあり、まるで山寺のような急な角度の入母屋屋根が特徴の可愛らしい建物です。
十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場として、参詣者が終日、太鼓の音を響かせている。甲子の日は特別祈祷が厳修される。



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法華経寺法華堂(国指定重要文化財)

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法華経寺四足門(重要文化財)

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法華経寺五重塔(国指定重要文化財)

大正五年五月二十四日指定
建築年代江戸時代元和八年(1622)
構造形式三間五重塔婆瓦棒銅板葺
この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。塔の総高は九八尺(約三十m)で近世の五重塔としては標準的な規模となり、東京都大田区池上にある本門寺の五重塔(重要文化財)や台東区上野の寛永寺五重塔(重要文化財)とほぼ同じですが、他のものと比較すると軒の出が少ないので細長い感じを受けます。
建築様式は和様を主体として造られていますが、最上重のみは禅宗様になっています。これは明治四十五年に半解体修理が施された際に変更されたものとみられます。また、初重の正面は両開きの桟唐戸、両脇には窓枠に等間隔の格子をはめ込んだ連子窓を取り付けた伝統的な形式を守っています。
塔の内部には中心に芯柱、その外側には四天柱と呼ばれる四本の柱を立て、さらに禅宗様須弥壇(仏像を安置する壇)を置き、木造釈迦如来・多宝如来坐像(県指定文化財)をまつっています。四天柱をはじめとして内部は極彩色や朱漆で塗られ荘厳にされています。




昭和五十五年に修理が行われて外部に弁柄塗りが施されてました。
平成十一年三月 市川市教育委員会

また、江戸名所図会によれば、十八世日慈上人の像も安置されていると記されています。
ちくま学芸文庫 新訂 江戸名所図会6を参照

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庚申塔 文政6年(1823)

中山村の講中によって建てられた。

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葛飾神社 歴史

 

葛飾と付く地名は多いが、「葛飾」とは葛(カズラ)が繁り、それに飾られた豊かで美しい土地を意味する。『和名類聚抄』には葛飾郡栗原郷が記され、熊野大神を祀る「熊野神社」が勝間田の池(現:勝間田公園)傍の西側の丘にあった。

一方、「葛飾神社元宮」(または「葛飾大明神」・「葛飾明神」)の祠が元の位置の近傍とされる船橋市立葛飾中学校北側の児童公園(印内公園)に並んであり、元宮の御手洗の井戸と呼ばれた「葛羅(かずら)の井」も近くにある。文化年間(1804年 – 1818年)に再建された鳥居の「額束(がくづか)」には「一郡惣社 葛飾宮 新田末裔徳純慎書」と刻まれ、この元宮は葛飾郡の総社と崇められたようで、現在の当神社はこれを引き継いだものである。大正5年(1916年)、元宮を熊野神社へ合祀して現社名「葛飾神社」と改称、その時に村社に列した。



境内 

階段上の境内は24坪と広くはないが周りに「船橋名木10選」のクロマツが数本ある。国道14号に面し、成田街道と呼ばれた時代から成田山新勝寺への参拝や佐倉街道へと往来する人から白眉(はくび)の松の一つとして親しまれている。

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船橋名木10選のクロマツ

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庚申塔

角柱青面金剛塔 寛政12年(1800)11月 寺内新田の講中17人によって建立されている



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無線電信所道標  大正6年

ニイタカヤマノボレ 一二〇八」を発信した行田無線電信所への道標である。

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

  • 2018佐倉コスモスフェスタ開催中❗️オランダ風車を背景に50万本を超えるコスモスが満開です🌼

  • 増上寺に眠る6人の徳川将軍家墓所を尋ねました‼️

  • 伊能忠敬30年過ごした❗️「佐原の町並みと小野川沿い」をブラリ散策👟

  • 江戸城(皇居東御苑)の「城壁、反りの美」や「石垣の積み方」を探求しました🏯

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