2017年度、晩秋、佐倉城址公園の紅葉🍁の見納めです👟

ある晴れた日に、佐倉城址公園の紅葉を観に行った。くらしの植物苑前の、イチョウは既に落葉していて、城址公園内のモミジが赤く輝いていた。天気も良かったせいか、紅葉🍁も、今年で最後でないかと思われた。短い時間ではあるが十分楽しめたひと時であった。これからは、落葉であるが、また、風情がいい初冬。ヨリミチをオススメします🍁
晩秋のひと時を佐倉城址公園で紅葉を堪能🍁
佐倉城について🏯
佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤[かしまもとたね]が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造されたといわれる平山城です。北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した、標高30m前後の台地先端に位置します。
佐倉城はこうした地勢を巧みに利用しており、さらに水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配し、城下町としました。
城内は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸などと、家臣の屋敷割がなされた曲輪からなっていました。大手門(追手門)、三の門、二の門、一の門のあとを経て広い本丸の跡にでます。本丸と二の丸には屋形があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たしていました。本丸にはそのほかの建造物として天守閣、銅櫓、角櫓などがありました。
以後、江戸を守る要衝の地として代々譜代大名が封ぜられています。幕府の要職につくと佐倉に移されるという傾向がありました。歴代城主のうち9人が老中となっており、その数は全国の藩で最多です。堀田家が歴代城主のうち半分以上の期間を占めました。
明治時代になりここに連隊が設置される際に解体されたため、城の建造物は、西出丸にある小規模な薬医門の他、一切残っていません。しかし大手門跡から西の台地は市の史跡として良好に保存されています。
城の東端には、城の往時の模型や明治初期に撮られた城の古写真、城内から出土した遺物等が展示されている佐倉城址公園管理センター(佐倉城址公園センター)があります。
センダン
センダン科のセンダンは花も美しく、ほど良い日陰を作る樹木である。いろはかるたの「せ」が、「せんだんはふたばよりかんばし」となっていたことから。センダンの花に良い香りがあると思っている人が多い。確かに、うす紫の花が咲いている様子を眺めていると、いかにも香りが漂ってきそうである。
植物名の由来、漢字で書くことの是非など、センダンという植物名は多くの話題を含んでいる。例えば、
● 小学校の校庭に多いのは、「栴檀は双葉より芳し」ということわざから。
● センダンは縁起が悪いから家の近くに植えてはならない。
● 和名をカナで書くと意味が分からない。漢字なら良く分かる。
高知市に住んでいた頃、「四万十森林記行」というメールマガジンに投稿した原稿が残っていたので、少し修正して、以下に再掲する。
◆栴檀はセンダンではない
「栴檀は双葉より芳し」というのは、香木のビャクダンをセンダンと読み違えた、とされています。しかし、読み違いと言うより、中国語と日本語(やまとことば)の混同が原因なので、そのいきさつを考察してみました。
もともと、日本の動植物名は「やまとことば」であり、漢字で表すものではありません。日本固有の文字であるカナが発明されるまでは、発音を借りる(万葉仮名)、中国名をそのまま使用する(松など)、意味から当て字を作る(馬酔木など)、新たな文字(国字)を作る(椿など)、語源を漢字に当てる(水木など)という5通りの漢字表記が使用されました。これらの区別ができないと、混乱し、間違いが多くなります。
そこで、当用漢字を制定した際に、「動植物名はかな書きとする」と明記され、国語表記の基準として定着していたのですが、当用漢字を常用漢字とする規制緩和の流れから、すっかり乱れてしまいました。とりわけ、言葉を大事にするはずの文学の世界で誤用が多く見られます。
牧野:新日本植物図鑑(北隆館、1961)にはセンダンの日本名について「語源不明.香木の栴檀とは関係がない.オオチは古名である.」と書かれています。
深津正は、木の名の由来(東京書籍、1993)で、山本章夫説のセンダマ(千珠)、深津説のセンダンゴ(千団子)などを語源として紹介しています。いずれも、果実が丸く、数が多いことに由来しています。
古名のアフチは淡い藤色からでしょう。歴史的仮名遣いの「あふち」は、逢瀬を「おうせ」と読むのと同じく、現代仮名遣いでは、「おうち」となります。
センダンは中国にもあり、中国高等植物図鑑では「楝樹」となっています。
では、栴檀とは何でしょう。香木のビャクダン(現代中国名は檀香)の異名です。原産地のインドではチャンダナと呼ばれ、中国に渡ってチャンタンとなり、「栴檀」の文字が充てられました。それが日本に伝えられたようです。そして、栴檀と書いたものをセンダンと読み違えたのです。センダンという和名を持った植物とは何の関係もありません。
いろはかるたの元になったのは、鎌倉時代の仏教説話集である「撰集抄」中の、「栴檀は二葉よりにほひ、梅花はつぼめるに香あり」という文章でしょう。撰集抄の作者が西行法師であるとされてきたため、西行の間違いとする説が生まれました。迷惑なことです。
栴檀と梅の例え話は、偉人(?)や独裁者を語るときに用いられるもので、公教育の理想から最も遠いところにあるのではないでしょうか。、「石の上にも三年」とか「大器晩成」の方が学校にはふさわしい、と私は思います。
四国や九州の校庭に多いのは、良い日陰を作るためでしょう。同じ目的ではエノキが最も有名です。江戸時代に東海道の里程木として広められました。エノキは成長が遅いので、センダンが用いられたのでしょう。
エノキは語源が「愛の木」とされるくらい親しまれているのに、センダンは縁起の悪い樹と言われることがあります。古くは、獄門台に用いられ、「さらし首の木」と呼ばれたことが原因。南方熊楠(1929)によると、センダンはインドで邪気を退ける霊力がある霊木とされていたのが、仏教と共に日本に伝えられ、処刑された者のたたりを封じる目的で使われたようです。つまり、獄門台に使われたのは、センダンが私たちを守るからであって、縁起が悪いのではありません。
乙益正隆:球磨の植物民俗誌(地球社、1978)によると、九州の球磨地方には「女の児が生まれたらセンダンを植えよ」という教えがあるそうです。一般的には「キリを植えよ」ですが、温暖な九州ではセンダンが適しています。成長が早く、材が適度に柔らかいので用途が広い樹木です。
同地方には、「センダンの木に登ってはならない」とか、「家のまわりや近くに植えるな」などの教えもあるそうです。これは、センダンの枝が折れやすいので危険を避けること、成長が速く枝張りが大きくなることが理由で、悪い木とみているわけではないようです。
結論: センダンは良い樹木、栴檀 (チャンタン)と一緒にするな!
佐倉城址公園隣接のくらしの植物苑、最後の伝統菊、肥後菊