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錦秋の皇居東御苑と皇居周辺をヨリミチ🍁

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佐倉市の生涯大学OB会で、日帰りバス旅行に出かけた皇居周辺と皇居東御苑に行った。皇居東御苑では、ボランティアガイドにより詳細を聞きながら御苑内を回った。江戸時代にタイムスリップした様だった。丁度、紅葉になりかけたところで、気持ちよいひと時であった。ぜひ、ヨリミチをオススメします。

江戸時代の伝統を生かした弁当

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色づき始めた、皇居外苑と皇居東御苑を散策🍁

皇居外苑

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行幸通り

東京都道404号皇居前東京停車場線(とうきょうとどう404ごう こうきょまえとうきょうていしゃじょうせん)とは、皇居前の和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までを結ぶ特例都道である。また、天皇が行幸するために利用する道路として、行幸通りとも呼ばれている。

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行幸通り、正面は東京駅

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楠木正成の銅像 

(1294―1336)

鎌倉末・南北朝時代の武将。父は楠木正遠(まさとお)と伝えられる。幼名を多聞丸(たもんまる)、のち兵衛尉(ひょうえのじょう)と称する。1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて、笠置(かさぎ)に参向し、のち赤坂(あかさか)城(大阪府南河内(みなみかわち)郡千早(ちはや)赤坂村)に挙兵した。挙兵準備の一環として和泉(いずみ)国若松荘(わかまつのしょう)(大阪府堺(さかい)市)に乱入し、兵糧米(ひょうろうまい)を徴発したため、悪党(あくとう)楠木兵衛尉とよばれた。赤坂城には尊良(たかなが)親王、護良(もりよし)親王らも立てこもったが、鎌倉幕府軍の猛攻によって陥落させられた。32年、護良親王が吉野で挙兵したのに応じて、正成も千早城(南河内郡千早赤坂村)で再挙した。同年12月、赤坂城を占拠していた湯浅(ゆあさ)党を降(くだ)して根拠地を奪回し、翌年1月には、和泉の守護軍、河内の守護代と戦ってこれらを駆逐し、南河内から和泉の地域を支配下に入れた。さらに、摂津に進撃して、四天王寺(してんのうじ)の合戦で、隅田(すだ)、高橋の両将が率いる六波羅(ろくはら)軍を撃破した。正成の行動に呼応して、畿内(きない)から西国にかけては、河野(こうの)水軍や赤松一族が反幕運動を展開し始めた。鎌倉幕府は、大仏家時(おさらぎいえとき)らを大将とする大軍を西下させて、反幕行動を一挙に鎮圧しようとした。このため、33年(元弘3・正慶2)2月には赤坂城が落ち、閏(うるう)2月上旬には吉野の砦(とりで)も壊滅した。しかし、正成が立てこもった千早城は、鎌倉軍の猛攻に耐え続け、反幕府勢力結集の時を稼ぎ、後醍醐天皇の隠岐(おき)脱出、赤松則村(円心(えんしん))らの六波羅攻撃を可能にした。
1334年(建武1)建武(けんむ)政権の樹立とともに、従(じゅ)五位下検非違使(けびいし)、左衛門少尉(しょうじょう)に任ぜられ、河内・摂津の守護となった。さらに、恩賞方(おんしょうがた)、記録所の寄人(よりゅうど)、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の奉行(ぶぎょう)にもなり、新田義貞(にったよしさだ)、名和長年(なわながとし)らと武者所(むしゃどころ)に勤務したが、その栄達ぶりを世人は結城(ゆうき)、名和(なわ)(伯耆守(ほうきのかみ))、千種(ちぐさ)とあわせて「三木一草」と称した。天皇の信任も厚く、二条富小路(にじょうとみのこうじ)に屋敷を構え、名和長年、結城親光(ちかみつ)とともに天皇の身辺を警護した。35年(建武2)、中先代(なかせんだい)の乱を鎮圧するために鎌倉に向かった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、同年末、新田義貞誅伐(ちゅうばつ)を名目に挙兵し京都に迫ったとき、正成は、後醍醐天皇とともに叡山(えいざん)にこもって尊氏軍の糧道を絶つ一方、北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍と共同して、京都糺(ただす)の森において尊氏軍を破り、これを九州へと放逐した。しかし、36年(延元1・建武3)5月、態勢を立て直して東上する尊氏軍と兵庫湊川(みなとがわ)(兵庫県神戸市)において激戦のすえ敗北し、弟正季(まさすえ)とともに自刃した。「今度ハ君ノ戦必破ルベシ。正成和泉河内両国ノ守護トシテ勅命ヲ蒙(こうむ)ル間、軍勢ヲ催スニ、親類一族猶以(なおもって)難渋ノ色アリ、何ニ況(いわん)ヤ、国ノ人民ニヲイテヲヤ、是則(これすなわち)、天下君ヲソムケ奉ル証拠ナリ」(梅松論)との、湊川の戦いへ向かう途中、朝廷へ上奏した最後のことばからは、正成が歴史の趨勢(すうせい)を洞察しうる正確な判断力をもった武将であったことが知られ、金剛寺などに残された書状などからその風格をしのぶことができる。[佐藤和彦]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院) ▽藤田精一著『楠氏研究』(1933・積善館) ▽植村清二著『楠木正成』(1966・至文堂)』
[参照項目] | 湊川の戦い



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果樹園、日本の古来の品種を集めた

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姫リンゴ

・古くから鉢植えや庭植えで親しまれるが人工的に作られた園芸品種であり、天然の分布はない。セイヨウリンゴとズミの雑種とする説が一般的だが、詳細は不明。



・4月から6月にかけて咲く花は、できはじめは薄いピンク色で、満開時には白になる。

・秋になると直径1.5~4センチ弱の実ができる。実は渋みが強く、甘みもないため食用にならないが、木から落ちにくく、たわわに実ることや、色付きが良いことから鑑賞用とされる。また、果実酒として使うこともある。

・普通のリンゴのように枝を広げて育てるのではなく、枝が斜上する
ように仕立てるため、比較的狭い場所でも育てることができる。

・植物学上の和名はイヌリンゴであり、イヌリンゴと同一視する説もある。

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富士見櫓

江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。

天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。

石垣は主に伊豆の自然石でこのあたりの石垣の積み方は初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石をそのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。そしてこの石垣を作ったのは主に加藤清正公と言われています。
石垣の高さは約14.5メートル、櫓の高さは約15.5メートルになります。

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クスノキ

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センリョウ

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ツワブキの群落

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大奥跡

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天守跡

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ヒレナガニシキゴイ

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二の丸池

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秋の七草の残り香

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二の丸雑木林

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百人番所

大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。
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同心番所

大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところににあり内側には同心番所があります。この門も本来は枡形門で、両側和水堀でした。
ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。

同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。

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同心番所の屋根瓦の一番高いところには、徳川家の葵御紋の妻瓦があり、軒先は普通の三巴紋の瓦となっています

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ジュウガツザクラ

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大手門

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アクセス

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最寄りの交通機関からの距離(所要時間)

大手門へ
地下鉄各線の大手町駅(C13a出口)から約200m(徒歩約5分)
地下鉄千代田線二重橋前駅(6番出口)から約700m(徒歩約10分)
JR東京駅(丸の内北口)から約1,000m(徒歩約15分)
平川門へ
地下鉄東西線竹橋駅(1a出口)から約200m(徒歩約5分)
北桔橋門へ
地下鉄東西線竹橋駅(1a出口)から約400m(徒歩約5分)

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

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