印旛沼観光船のガイド兼助手にチャレンジ🚤水草、カワウ、サギ、カモの生きものたちがみられた🐟

29/9月に、印旛沼観光船のガイド兼助手の募集があり応募したところ採用されて、年1回の水難訓練に参加することになった。船の経験なく不安いっぱいであるが、未知への体験としてチャレンジする事にした。当日は天気が良くて訓練日にならないと、責任者は嘆いていた程穏やかな水面。こちらは初めてのことで、穏やかで、素晴らしい印旛沼を満喫した次第である。10月から始まる、コスモスフェスタ期間の土日祝がデビュー戦である。
Contents
印旛沼の歴史
有史以前の縄文および弥生時代における印旛沼は、現在の鹿島(茨城県)や銚子(千葉県)の方向から内陸に向かって広く開けた「古鬼怒湾(こきぬわん)」と称された内海の一部で、印旛浦と呼ばれていた。水は淡水でなく、海水であったことは、利根川下流部の低地と台地が接する境界域の貝塚からアサリ、バカ貝、マガキ、ハマグリ、サルボウ、タマキ貝などの海産性や汽水性の貝類が数多く発掘されていることから明らかである。
一方、ここで、現在、使われている「印旛」という漢字について、8世紀代には「印波」と書かれ、実際、和銅6年(713年)に筆録された「常陸国風土記」の中では、“古き伝えに日へらく、大足日子(おおたらしひこ)の天皇、下総の国の印波の鳥見の丘に登りまして…”と記され、読み方としては「いには」であった。そして「印旛」、もしくは「印幡」と書くようになったのは8世紀以降、大体、奈良時代から平安時代にかけてであり、現在の「印旛」という書き方に落ち着いてきたのは中世以降、12世紀を過ぎた頃だといわれている〔平川(2010):古代の成田と香取の海、成田市史研究、第34号〕。
これはさておき、今から1,000年ほど遡った印旛沼は、天平宝字3年(759年)に約4,500首を収録した歌集の「万葉集」の中で、
「大船の香取の海に錨おろし、いかなる人か物念(ものおも)はざらん」
と詠われている香取の海、いわゆる第1.1図に示すように〔千葉県:「千葉県の自然誌 本編1 千葉県の自然」、平成8年発行〕、現在の霞ヶ浦(茨城県)や北浦(茨城県)、牛久沼(茨城県)、手賀沼(千葉県)、そして千葉県の水郷一帯を一つにした水域の一角にすぎず、水の性状は今のように、淡水ではなく、淡水と海水が混じり合った汽水であったと考えられている。
江戸時代以降の印旛沼開発
千葉県北部に位置する印旛沼は、江戸時代から洪水被害に苦しんでおり、明治、大正、昭和と先人たちが洪水対策の工事に挑み続けてきた歴史がある。1969年に長年の悲願であった「印旛沼開発事業」が完成し、洪水被害は大きく減った。現在、2010年から「国営印旛沼二期農業水利事業」として、老朽化が進んだ農業用用排水機場や用排水路の改修・更新と合わせ、印旛沼の水質保全のため循環かんがい施設の整備や、本地域での環境保全型の営農が拡大するよう取り組んでいる。
江戸時代における治水・開発計画
徳川幕府による利根川の開発計画は、1594年より開始され、1654年には、利根川を常陸川筋に向けて、上流から下流を一本化する「利根川東遷」が完成する。従来、印旛沼に流れ込む河川の増水による内水と、利根川からの逆流による外水により洪水が起こっていた印旛沼は、水の流れが変わったこの東遷以降、洪水がより広範囲におよぶようになったという。
そこで1724年、平戸村の名主・染谷源右衛門らは、印旛沼の洪水被害を防止し、新田開発を行う目論見書を幕府に提出した。幕府は土木技術に精通した井澤弥惣兵衛らの役人に現地を検分させた後、源右衛門を請負主とする掘割工事の計画を許可し、数千両ともいわれる資金を貸し付けた。
こうして江戸湾から平戸村までの約17キロメートルの掘割工事が着手されるが、源右衛門および同士78人が負債を抱えたため、工事は頓挫したとされている。
1780年、幕府からの求めに応じ、草深新田の名主・平左衛門、島田村の名主・治郎兵衛は、地元の普請として、印旛沼の開発のための目論見書を幕府に提出した。これは、平戸村から検見川までの掘割普請、埜原新田から安食村までの利根川からの水を締め切る普請であった。
これを受け、財政経済政策の一環として、印旛沼の開発に意欲を持っていた老中・田沼意次は、大商人の資金を活用し、幕府直営で実施することを決定した。しかし、工事は浅間山の噴火により、1783年に一時中止し、再開の後、全体の3分の2が進捗(しんちょく)したが、同年の豪雨による利根川の大はん濫により、整備した施設が壊滅状態になった。幕府は工事再開を目指していたが、老中・田沼意次が罷免されると、この掘割工事は潰(つい)えることになる。
その後も老中・水野忠邦により平戸橋から花見川までの水路開削に着手されたが、これも水野忠邦の失脚などにより1844年、工事は3度目の挫折をみる。
明治・大正期の動き
江戸期の3度の挫折を乗り越えて、幕末から明治、大正にかけて、印旛沼開発は新たに動きだすことになる。1877年、千葉県令柴原和が内務卿・大久保利通、大蔵卿・大隈重信に印旛沼開削の上申書を提出する。渋沢栄一、金原明善らも名を連ねたこの印旛沼開削計画は、1921年の農務省「印旛沼手賀沼土地利用計画」、1927年の「印旛沼手賀沼大規模開墾計画」につながっていくことになる。
明治期にも印旛沼周辺住民は、豪雨、氾濫に苦しんでおり、中でも1896年の水害は未曾有のものになり、堤防が決壊し、濁流が村々を襲い、布鎌村、埜原村の被害は甚大だった。数々の水害を機に、利根川の治水対策、改修が行われる。
1897年、利根川が河川法の適用を受けると、その後、利根川の計画洪水流量が増強された。1922年には印旛沼と利根川をつなぐ長門川に印旛水門が建設され、利根川からの印旛沼への逆水が防止されるなど、一定の洪水対策が講じられた。
国営印旛沼手賀沼干拓事業の実施
昭和期に入っても、1935年、1938年、1941年に発生した洪水は「3年に一度コメを収穫できればよい」といわれるほど甚大な被害をもたらした。
戦後、食料増産と失業者対策として、1945年に閣議決定された「緊急干拓事業」の一環として、印旛沼の干拓と内水排除を目的とする農林省直轄の「国営印旛沼手賀沼干拓事業」が1946年に着工されることとなった。
事業途中、工業用水の需要拡大に対応するため、計画が改定され、印旛沼の中央部を埋め立て、北印旛沼と西印旛沼を捷水路(しょうすいろ)で結ぶとともに、新川と花見川の分岐点に大和田機場、利根川に印旛機場、長門川に酒直水門と酒直機場を設置、併せて調整池周辺に堤防を築く計画となった。
この「印旛沼開発事業」計画は、1963年に水資源開発公団(現水資源機構)に継承され、1969年に完成をみることになり、洪水に苦しんでいた地元民の長年の悲願が成就した。
印旛沼開発の歴史
水草の種類
水草の種類 水草とは、湖、沼、ため池、川などの水中で生える植物ことをいい、一般的に、生育している場所によって次のように分類されます。
湿地性植物
(しっちせいしょくぶつ)
根元が湿っている場所で育つものをいいます。
気候によって水をかぶることもあるので、抽水植物と完全に区別することは困難です。
抽水植物
(ちゅうすいしょくぶつ)
水底に根を張り、茎の下部は水中にありますが、茎か葉の少なくとも一部が水上に突き出ているものをいいます。
浮葉植物
(ふようしょくぶつ)
水面に葉を浮かべ、水底に根を張ったもののことをいいます。
浮遊植物
(ふゆうしょくぶつ)
植物体が水面に浮かび、根は水中にたれて水底につかないものをいいます。
沈水植物
(ちんすいしょくぶつ)
水底に根を張り、茎、葉まで水中にあるものをいいます。
水草の機能 ・水質を良くする機能をもっています
・生きもののすみか、エサ場、産卵場、避難場として役立ちます
・水草のある水辺の風景は、心をいやしてくれます
印旛沼の水草種数のうつりかわり 昭和39年には47種の水草が印旛沼に自生していましたが、印旛沼の水質悪化に伴い水草は減少し、平成18年の千葉県による調査では、11種しか確認されませんでした。
沈水植物においては、1種も確認されませんでした。
図 印旛沼の水草の生育種数の変移
帰化植物(外来植物)
帰化植物とは、人間の様々な活動に伴って、もともと暮らしている場所から別の場所へ入り、野生化してしまった植物のことをいいます。
帰化植物は在来種(その場所にもとから生息していた生物)や人間の生活に悪い影響を与えてしまう場合があります。
特に、生態系、人の生命・身体、農林水産業へ被害を及ぼすもの、又は及ぼすおそれがあるものの中から、環境省が指定する「特定外来生物」であるナガエツルノゲイトウは、印旛沼流域で大量に増え、在来種がおいやられてしまうなどの問題がおこっています。
正面、右の高台は、サンセットヒルズオートキャンプ場と左下、ウインドミルクリニック(木曜日限定診療の眼科病院)
人命救助訓練中
ふるさと広場船着場から対岸の佐倉市観光協会船着場(ふるさと広場から船着場まで渡しがでている)
遠くにユーカリが丘高層マンション群
佐倉市観光協会の観光船
ふるさと広場・オランダ風車「リーフデ」
印旛沼アクセス