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天正18年(1590)秀吉との攻防戦🏹の小田原城によりみち🏯

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北条五代の小田原城は前から行きたいと思っていた城だ🏯箱根に行った折に途中でと思っていたが、やっと、今回、箱根の帰り道に寄ることができた。堀が深く攻めるのに難しい城の感じを受けた。途中の資料館にも寄った。まだ、発掘調査中の掲示板がありそこからも色々な発掘物が出てきているようだ。江戸時代の江戸城修築の時の石垣は、ここ小田原の石切場から舟で搬送したようだ。意外と知らない小田原をもう一度行ってみたいと思った。ぜひ、よりみちをオススメします🏯

小田原城址公園🏯

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。


しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。

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小田原城の歴史🏯

小田原城下絵図(文久図)

小田原城の歴史🏯
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。
小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

*小田原城下絵図(文久図)小田原城天守閣所蔵 題字/宝永2年小田原城再興碑より

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南堀の大賀ハ

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小峯橋(御茶壷橋)

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築地にあった、小田原橋の親柱

伊豆、小田原で切り出した石材を舟で築地まで回漕して、江戸城修築に役立てた。築地の小田原橋の名残りの親柱。

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早川石丁場(石切場)の切石

箱根外輪山の早川に面した山腹一帯には、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)の江戸城修築に使用された石垣用の「石切場」。

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小田原市郷土資料館

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北条五代とその一族

早雲の足跡

北条氏の支配領域

北条氏と主な武将の生没年

虎朱印🐅

「祿壽應穩(禄寿応穏)」の文字の上に虎を据えた印。戦国大名北条氏の権威を象徴する印で、当主の発給する文書に押印されました。初見は永正15年(1518)の氏綱が発給した文書。以後、氏康・氏政・氏直と代々使用されました。
禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように。人々が平和で暮らすという願いが込められていると言われます。

北条氏家紋「三つ鱗」


戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。
明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。

 

北条五代

伊勢宗瑞(後の北条早雲)

伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身です。伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していました。長享元年(1487)以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495))に相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出し、その後相模一国を平定します。

北条氏綱

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二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られています。早雲没後本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物です。また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立しました。

北条氏康

三代氏康は氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています。天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大しました。

北条氏政

四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承しています。永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により切腹しています。

北条氏直

 

五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなる、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし、小田原合戦の敗北の後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなっています。こうして、約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げます。

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小田原城と小田原合戦攻防図説明板

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正規の登城ルート

小田原城址公園マップ

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常盤木門(ときわぎもん)

小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。

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天守閣

東側立面図


天守閣は、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された小田原市のシンボルです。
江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に昭和35年に江戸時代の姿として外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興に当たっては、「瓦一枚運動」が展開され、多くの市民からの寄付が寄せられました。
3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822m2となっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。
内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。
小田原市では平成18 年に天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣の高さを超える建物の建築を制限し、長い時間をかけて育まれてきた歴史景観を次代に受け継いでいくこととしています。

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銅門(あかがねもん)

馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(平成9年復元)。

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小田原邸園散歩の案内板

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石垣山城が「続日本100名城」に選定!

日本城郭協会(東京都品川区)が、平成29年4月6日「城(4 6)の日」に、石垣山城を「続日本100名城」に選定しました。
既に、平成18年発表の「日本100名城」には小田原城が選定されています。

※「続日本100名城」とは
「日本100名城」の選定は(公財)日本城郭協会が、文部科学省・文化庁の後援を得て、日本を代表する文化遺産であり地域の歴史的シンボルでもある城郭、城跡を、多くの人に知ってもらい、関心を高め、ひいては地域文化の振興につながることを念じて設定されました。【(公財)日本城郭協会 公式HPより抜粋】
その続編となる「続日本100名城」は、前回選定に入っていない城郭が対象で、全国の100城が選定されています。
関連情報リンク
(公財)日本城郭協会のHP
石垣山一夜城

石垣山一夜城

石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。

この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。

秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。

この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。
面積 約5.8ha
富士箱根伊豆国立公園 昭和11年2月1日指定
国指定史跡石垣山 昭和34年5月13日指定

アクセス
・徒歩
JR早川駅から石垣山農道を経て徒歩約50分
箱根登山鉄道入生田駅から徒歩約60分

道順
■観光バス
国道1号「地球博物館前」交差点を、東京方面から左折(箱根方面から右折)道なり約2.8km

■乗用車
・西湘バイパスを湘南方面から
西湘バイパス「小田原IC」で降り、国道1号「山王橋」交差点左折、国道1号を道なり箱根方面へ約2.9km先「板橋」交差点左折、約350m先「ターンパイク入口」交差点左折、約260m先の新幹線高架手前を右折、約70m先を右折し道なり約1.8km
・小田原厚木道路から
小田原厚木道路「小田原西IC」で降り国道135号方面へ約860m先の新幹線高架手前を右折、約70m先を右折し、道なり約1.8km

注意
西湘バイパス「早川IC」又は国道1号「早川口」交差点から国道135号を経由する場合、国道135号「早川」交差点は右折禁止です。
「早川」交差点約70m手前を左折、直後の交差点を右折、再び直後の交差点を右折し「早川」交差点を横切ってください。(幅員狭くバス等不可)

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小田原城址公園の行き方

電車
小田原駅から徒歩10分

小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
西湘バイパス「小田原IC」から約5分
東名高速道路「大井松田IC」から約40分
登城ルートはこちら
駐車場
小田原城址公園には、一般駐車場はありません。周辺の有料駐車場をご利用ください(下記リンク「小田原駅周辺駐車場一覧」をご参照ください)。
小田原駅周辺駐車場一覧
観光バス・障がい者車両・オートバイの駐車場は、城址公園内に有料駐車場があります。
地図は、上記リンク「小田原城周辺駐車場一覧」をご参照ください。
利用料金・利用時間など詳細につきましては、駐車場を管理運営します小田原市観光協会ホームページをご覧ください。
国道1号線の「御幸の浜」交差点を北側(お城の方)に曲がり、次の「三の丸小学校前」交差点を左折し、その次の「藤棚」交差点の右側が入口となっています。
小田原市観光協会「藤棚観光バス駐車場」ホームページ

 

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

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