成田空港からLCCで行った徳川御三家紀州藩、和歌山城へ日帰りのたび!

成田空港から関西空港までLCCで行き、そこからレンタカーで和歌山城周辺を日帰り旅をした。和歌山城は戦前までは、国宝であったが空襲により再建された城だが、遠くからみえる白亜の城は、優美で神々しい感じがする。石垣も刻印が数多くあり当時の栄華をしのばせるものがあった。特に石積みは、歴代藩主により3通りの石積みが見られることが出来たのは幸運だった。徳川御三家の紀州藩。桜の季節にも行ってみたい城でもある。
Contents
- 1 和歌山城
- 1.1 築城経緯
- 1.2 和歌山中心部にそびえる天守閣
- 1.3 豊臣時代の和歌山城 ―築城の始まり―
- 1.4 和歌山城歴代藩主
- 1.5 紀州徳川家 五十五万五千石
- 1.6 浅野時代の和歌山城 ―本格的な城づくりへ―
- 1.7 和歌山城天守閣
- 1.8 追廻門
- 1.9 岡口門
- 1.10 一の橋・大手門
- 1.11 和歌山城の石垣
- 1.12 徳川時代の和歌山城 ―御三家のひとつ紀州徳川家の居城―
- 1.13 まりと殿さまの歌碑
- 1.14 天守曲輪への入口の櫓門
- 1.15 天守曲輪
- 1.16 二の門(城外側正面より)
- 1.17 大天守と小天守
- 1.18 二の門(城内側)
- 1.19 紀の川河口方面をみる
- 1.20 遠く光る海は、和歌山湾方面
- 1.21 和歌山城大天守からの眺望
- 1.22 豊臣・桑山時代の野面積み
- 1.23 和歌山城の石垣
- 1.24 浅野時代の打込接ぎ
- 2 和歌山城、アクセス
和歌山城
築城経緯
天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建したのが和歌山城です。藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえます。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めました。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となります。豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組みました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石の領主となり、城の大規模な改築を行いました。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
元和5年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立します。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出しました。
明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄となります。明治34年(1901)、和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1934)に史跡に指定されました。
和歌山中心部にそびえる天守閣
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。
そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に来たことを実感させてくれます。
天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川がゆったり流れているのがよくわかります。まずここで和歌山市全体を頭に入れて、観光を始めるのもひとつの方法かも。
豊臣時代の和歌山城 ―築城の始まり―
和歌山城は、天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が、弟の秀長に築城を命じたのが始まりです。このとき、普請奉行を藤堂高虎・羽田長門守正親・横浜一庵法印良慶が勤めたといわれ、約1万人が築城に動員されました。秀長は大和郡山に在城し、城代として和歌山城には桑山重晴がおかれました。桑山氏によって、どの程度城が築かれたかわかりませんが、東の岡口門を大手とする縄張りがなされ、本丸部分を中心に築城が進められたと思われます。「紀州の青石」と呼ばれる緑色片岩で築かれた石垣が、この頃の築城の範囲と思われます。
桑山重晴
大永4年(1524)~慶長11年(1606)
尾張国(愛知県)海東郡に生まれます。豊臣秀吉に仕え、のち秀長に仕えて、但馬国(兵庫県)に1万石を拝領し竹田城に在城します。天正13年(1585)の紀州攻め直後、岸和田城に入り、その後和歌山城の城代として3万石の大名となります。関ヶ原の戦では東軍に味方し、和歌山城を守ります。戦後は国替えされます。


和歌山城歴代藩主
1586~1596年 | (初代) | 桑山重晴(くわやま しげはる) | 桑山家 秀長の城代 |
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1596~1600年 | (二代) | 桑山一晴(くわやま かずはる) | 桑山家 秀長の城代 |
1600~1613年 | (初代) | 浅野幸長(あさの よしなが) | 浅野家 |
1600~1613年 | (二代) | 浅野長晟(あさの ながあきら) | 浅野家 |
紀州徳川家 五十五万五千石
1619~1667年 | (初代) | 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ) | 徳川家 |
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1667~1698年 | (二代) | 徳川 光貞(とくがわ みつさだ) | 紀州徳川家 |
1698~1705年 | (三代) | 徳川 綱教(とくがわ つなのり) | 紀州徳川家 |
1705年 | (四代) | 徳川 頼職(とくがわ よりもと) | 紀州徳川家 |
1705~1716年 | (五代) | 徳川 吉宗(とくがわ よしむね) | 紀州徳川家 |
1716~1757年 | (六代) | 徳川 宗直(とくがわ むねなお) | 伊予西条松平家 |
1757~1765年 | (七代) | 徳川 宗将(とくがわ むねのぶ) | 宗直流 |
1765~1775年 | (八代) | 徳川 重倫(とくがわ しげのり) | 宗直流 |
1775~1789年 | (九代) | 徳川 治貞(とくがわ はるさだ) | 伊予西条松平家 |
1789~1824年 | (十代) | 徳川 治宝(とくがわ はるとみ) | 宗直流 |
1824~1846年 | (十一代) | 徳川 斉順(とくがわ なりゆき) | 清水徳川家 |
1846~1849年 | (十二代) | 徳川 斉彊(とくがわ なりかつ) | 清水徳川家 |
1849~1858年 | (十三代) | 徳川 慶福(とくがわ よしとみ) | 斉順流 |
1858~1871年 | (十四代) | 徳川 茂承(とくがわ もちつぐ) | 伊予西条松平家 |
浅野時代の和歌山城 ―本格的な城づくりへ―
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で軍功のあった浅野幸長が、桑山氏にかわって入城します。そして、和歌山城を拡張していきます。まず城の正面である大手を東の方(岡口)から北の方の大手橋(一の橋)に変更したり、天守を建てたりしています。また、本丸・二の丸・三の丸・御屋敷など近世的な城として和歌山城の拡張工事をし、本町通りを大手とする城下町の建設もおこなっていきます。このように、浅野氏により和歌山は、その後の城と城下町の基礎がつくられます。元和5年(1619)7月、二代将軍徳川秀忠の命により安芸国広島への転封が言いわたされます。和歌山城には、19ヵ年の在城でした。
浅野幸長
天正4年(1576)~慶長18年(1613)
紀州浅野家初代藩。秀吉による小田原攻めのとき、父・長政にしたがって出陣します。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦では徳川家康につき、戦功により甲斐国(山梨県)から紀伊国を与えられます。入国後、和歌山城の天守の建築や城の拡張工事、城下町の建設、領内の検地などをおこない、支配を確立させていきます。
和歌山城天守閣
白亜の三層の大天守閣。虎伏山の頂上に位置し、市街地を四方に見下ろすことができ、大パノラマが広がります。
現在の天守閣は、戦災後の昭和33年(1958)に再建されたもので、内部には徳川家ゆかりの品が多数展示されています。
追廻門
追廻門は、冠木門(かぶきもん)ともいい、柱に本瓦葺の屋根をのせたもので左右に櫓がないのが特徴です。
道を隔てたところに、その昔、馬術の稽古場があったことから「追廻門」の名がついたのです。
岡口門
和歌山公園の入口は5か所あり、中でも南東に位置する岡口門は昭和32年に重要文化財に指定され、堂々とした構えになっています。
浅野幸長入城後、大手門(表門)として創建されましたが、徳川頼宣入城と共に、大手門が一の橋に改められたため、搦手(からめて)門(裏門)として改修されて現在に至ります。
その門を今、賑やかに通り過ぎる子供たちの姿が武士の姿とダブって見えたのは気のせいでしょうか。
一の橋・大手門
浅野・徳川時代を通して和歌山城の表門であった一の橋南詰に建つ大手門。
明治42年(1909)に自然倒壊しましたが、昭和58年(1983)一の橋とともに再建工事により復元されました。


和歌山城の石垣
和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が見られます。
二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の石垣。
時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込みハギ」の石垣があります。
また、石垣には、転用石や、約170種類2100個以上もの刻印を見ることができます。
こうした転用石や刻印を探してみるのも面白いのでは。
徳川時代の和歌山城 ―御三家のひとつ紀州徳川家の居城―
元和5年(1619)8月、浅野氏に代わり徳川家康の第十男徳川頼宣が、駿河(静岡県)から、55万5千石の領主として入国します。ここに御三家のひとつ紀州徳川家が誕生します。当時、幕府から銀2000貫をもらい、二の丸の拡張や砂の丸・南の丸など大規模な増築をおこない、「南海の鎮」として幕府の西国支配の拠点づくりをします。また、城下町を整備し、和歌浦に紀州東照宮を建てます。江戸時代の終わりごろには、全国で第8番目の都市にまで発展します。
五代藩主徳川吉宗は、藩内で質素倹約や新田開発、訴訟箱の設置など藩の改革をおこない財政を建てなおします。この政策は将軍となってからの「享保の改革」へと発展します。十代藩主治宝は、歴代藩主の中でとくに文化面に力をそそぎ、雅楽や茶道の奥義をきわめ「数寄の殿様」と呼ばれました。十三代藩主慶福は、幕末の動乱期に十四代将軍となり、皇女和宮との結婚など幕藩体制の強化に努めます。紀州徳川家は252ヵ年在城し、明治をむかえます。

徳川頼宣
慶長7年(1602)~寛文11年(1671)
紀州藩初代藩主。父・家康、母・於万の方の子として生まれます。慶長8年(1603)、水戸の領主、同14年(1609)、駿河・遠江・東三河の領主をへて、元和5年(1619)、紀伊・伊勢55万5千石の領主として和歌山に入国します。頼宣の紀州への国替えは、江戸と京・大坂を結ぶ海路を確保するためなどといわれます。頼宣は御三家のひとつとして二代将軍秀忠、三代家光、四代家綱の政治をたすけます。
徳川吉宗
貞享元年(1684)~宝暦元年(1751)
紀州藩五代藩主から徳川幕府八代将軍となり傾きかけていた幕府財政を建て直し、幕府中興の祖といわれています。二代藩主光貞の四男として吹上御用屋敷で生まれ、兄たちのあいつぐ死で宝永2年(1705)、藩主になります。享保元年(1716)、八代将軍となり幕府の組織を整備、新田開発や目安箱の設置、質素倹約など「享保の改革」をおこない、幕府の安定強化につとめました。吉宗は6尺余り(約180センチメートル)の大男で色浅黒く野性味ゆたかな人物であったといわれています。

まりと殿さまの歌碑
天守曲輪への入口の櫓門
総楠造りであったため、「楠門」ともよばれる。多聞櫓によって東は大天守と連結し、西は二の門櫓と接している。戦災で焼失した天守曲輪のうち、二の門だけが木造で復元された。
天守曲輪
二の門(城外側正面より)
大天守と小天守
小天守は登閣口となっている、屋根は「唐破風」でその奥の屋根の飾りは銅板で「青海波」という模様になっている。
戦災(1945年)によって焼失し、現在の天守は1958年(昭和33)に築かれた鉄筋コンクリート造りであるが、外観は寸分違わず復元されている。
二の門(城内側)
紀の川河口方面をみる 
遠く光る海は、和歌山湾方面
和歌山城大天守からの眺望
乾櫓の向こうに、紀ノ川河口を望む。
豊臣・桑山時代の野面積み
和歌山城の石垣は、天正時代に桑山重晴によって築かれた。このときの石種は緑泥片岩(りょくでいへんがん)、積み方は”野面積み”である。緑泥片岩とは、近世城郭では和歌山城と徳島城にしか使われていないめずらしい石で、色彩的にも美しい石である。
和歌山城の石垣
城を築く場合、石垣の積み方には、野面積み(のづらづみ)・打込接ぎ(うちこみはぎ)・切込接ぎ(きりこみはぎ)という種類があるが、和歌山城では、すべての積み方がみられる。野面積みは、自然石や粗加工の割り石を積んだもの。打込接ぎは、石垣を構成する大きな石材のあいだに、小さい石材をうちこんだようにみえる積み方。切込接ぎは、精加工の石材を使用し、石材と石材のあいだの隙間がほとんどない積み方。
浅野時代の打込接ぎ
慶長時代(約1600年~1614年)、城と石垣は浅野幸長(よしなが)によって修築されている。石種は和泉砂岩。積み方は、”打込接ぎ”だった。