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日本橋から船に乗り、江戸城石垣や都心の川を探検・神田川クルーズ!!

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日本橋船着場から、気楽に神田川クルーズが出来るようになりました。半日の旅でも、日帰りの旅でも自由プランで行けます。

日本橋川、神田川

日本橋川や神田川など、東京の真ん中を流れる河川を進む都市探検クルーズ! 江戸の頃から人々の生活を支えた水路には水道橋(懸け樋)跡や江戸城石垣など多くの歴史的構造物が残ります。普段は見れない神田川の水面から眺める「御茶ノ水切通」や、隅田川三名橋の一つ・清洲橋越しに眺める東京スカイツリーは絶景です!

日本橋から船に乗り都心の川を探検

名橋の日本橋、常盤橋、聖橋、万世橋、柳橋など数々の橋をくぐり江戸城の石垣や、御茶ノ水渓谷、川から眺める秋葉原や浅草橋を巡る日本橋・神田川ぐるり1周コース

乗船コース(90分神田川クルーズ)

90分 神田川クルーズのコース

コース

日本橋船着場~日本橋川~常磐橋~三崎橋~水道橋~神田川~聖橋~万世橋~柳橋~隅田川~豊海橋~日本橋川~日本橋船着場

 

日本橋の主な特長

名橋「日本橋」日本橋が初めて誕生したのは慶長8年(1603年)。当時は木造の太鼓橋で、現在の石造二重アーチは明治44年(1911年)に架けられたものです。架橋100周年の折には、橋のたもとに日本橋船着場が建設され、都心で気軽に楽しめる舟運スポットとして注目を集めています。また近年では、かつて魚市場が栄えた川沿いや橋の景観を見直す動きが活発になり、さらなる発展が期待されています。

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日本橋魚市場発祥の地の碑

日本橋の北詰 東側に「日本橋魚市場発祥地碑」が建っている。
江戸~大正までの期間, このあたりから北 (三越の東側一帯) にかけて 大きな魚市場が 広がっていた。

その内容は おおよそ次のようなものである。

昔から 東京湾でとれる魚を売りさばくために, 日本橋に魚河岸ができていた。 この頃の市場は 漁民が自分で商っていた。
徳川家康が江戸に幕府を開いた際, 摂津の佃村・大和田村から数十名の漁民を江戸に移り 住ませて 江戸城で消費する魚をとらせた。
幕府に納めた残りの魚を 一般に販売するために, 魚をとる人と 商う人が分離されて, 本格的な魚市場になり, 諸国からの海産物も入荷するようになって 大いに賑わった。
この魚河岸は 明治・大正時代まで 300年余り続いたが, 関東大震災により 魚市場は 築地に移転を余儀なくされた

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日本橋

img_2151日本橋船着場。この船に乗って、神田川クルーズ。

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日本橋[日本橋川]

船が行き来することを考慮し、石橋でありながら幅広に設計された「日本橋」。有名な麒麟像や獅子像を含め「橋(8×4)=32個」の像が配置されているが、このうち橋上から見えるのは28個。残りの4つは川面から望むことができる。

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関東大震災の火事で焼きただれたあと。火勢の凄さを物語っています。

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常盤橋[日本橋川]

都内でもっとも古い橋で、1877年に現在の石橋になった(現在は工事中のため通行止め)。「常盤橋」がもう一つ架けられてから、漢字表記の異なる「常磐橋」と呼ばれるように。上流には「新常盤橋」もある。

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江戸城石垣がみえる

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旧国鉄時代の紋章

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紅葉が綺麗。

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左、東京気象庁、虎ノ門に移転予定

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一ツ橋

皇居内堀に最も近づくのが、この一ツ橋のあたりです。このあたりにもかつて河岸がありました。橋の近くには、江戸時代からそのまま使われている石組みの護岸壁が残ります。

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きじばし

創架年代は定かではないが、慶長期にはすでに存在している。当初は現在より約100m上流に東西に架かっていた。橋名の由来については、『慶長見聞集』「江戸の川橋にいわれ有事」に以下の記述が存在する。

家康公関東へ御打入以降唐国帝王より日本へ勅使わたる数百人の唐人江戸へ来りたり是らをもてなし給ふには雉子にまさる好物なしとて諸国より雉子をあつめ給ふ此流の水上に鳥屋を作り雉子を限なく入置ぬ其雉子屋のほとりに橋一ツありけりそれを雉子橋と名付たり。

 

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俎橋(まないたばし)

橋名について

西詰に地下鉄九段下駅が存在し、その先に九段坂が伸びる。東詰には俎橋交差点があり、その向こうに神保町が続く。

西側には靖国神社や北の丸公園(日本武道館)、東側には専修大学神田キャンパスや神田古書店街などが広がり、観光名所に囲まれている。周辺には九段会館など戦前からの建築物も残る。

日本橋川に沿って上を首都高速5号池袋線が覆い、すぐ北に西神田出入口、南に竹橋ジャンクションがある。

歴史

江戸時代初期の架橋と思われるが、詳しい年代は不明である。江戸時代には東側には武家地が広がり、西側は飯田町と称した[2]。東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった。

万治年間より1903年(明治36年)までの期間、日本橋川は神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋め立てられており、堀留橋付近がその名の通り堀留で、俎橋が日本橋川の最も上流に架かる橋であった。俎橋と堀留の間の西岸には1664年(寛文4年)より俎河岸が存在し、物資の荷揚げが行われた。

明治には武家地が廃されて東側にも神保町へ続く直進した道路が設けられ、1904年(明治37年)に東京市電が開通すると、俎橋は交通の要衝となった。関東大震災後、震災復興再開発事業の一環として大正通り(現・靖国通り)の拡幅が進められ、1929年(昭和4年)俎橋も鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられると、俎橋の交通量は更に増加した。

1967年(昭和42年)首都高の高架に覆われた。靖国通り地下の都営地下鉄新宿線建設に伴い、1983年(昭和58年)鋼桁橋に架け直され、現在に至る。

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ただいま日本橋川の浄化活動実施中

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紅葉が綺麗

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あいあい橋

旧国鉄飯田町駅の再開発にともなう、平成架橋の橋です。飯田橋の頭文字、アイデンティティのIを意味したり、「和気あいあい」などが橋の名の由来となっています。

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後楽橋

神田川と日本橋川の分岐点のすぐ下流、神田川側にかかる橋が後楽橋。隣接して、東京ドームや場外馬券売り場(黄色いビル)に直結する歩道橋があり、人通りはこちらのほうが圧倒的に多い。

「後楽園」は、もとはといえば旧水戸藩邸内の庭園の名。この庭園は現在も公園として残され、都内の名所のひとつだが、隣接地にある(旧)「後楽園遊園地」「(旧)後楽園球場」「後楽園ホール」のほうが世間的には知名度が高く、水道橋駅からの人の波ももっぱらこれら娯楽施設に吸い込まれてゆく。

なお、地下鉄丸の内線の後楽園駅は、東京ドームをはさんだ向こう側(北側)になるので、後楽橋からはけっこう遠い。
ここから先の神田川は人工の放水路/運河で、もともとの川(平川)の流れはほぼ現在の日本橋川のルートに近い(正確には、今よりもっと飯田橋寄り)。

正面のビルは運搬船にごみを積み出す装置をもつごみ集積施設。
美しいとはいいがたい風景ではあるけれど、とりあえず神田川が現在も「都心からのごみ搬出」の目的では現役の流通ルートであることがわかる。

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水道橋

白山通りの一部なので交通量は極めて多く、橋の幅も三十メートルを超える広さである。
欄干(らんかん)のデザインは水の流れをモチーフとしているようである。
水道橋の名前の由来は、江戸時代に作られた神田上水の架桶(水路橋)に由来する。
この架桶は本郷と猿楽町の間に架けられていたもので、現在の水道橋よりも下流に存在したらしい。
かつては吉祥寺橋(きちじょうじばし)と呼ばれていた時期があったが、これは、現在文京区本駒込にある吉祥寺が、天正19(1591)から明暦の大火(1657年)で燃えるまでの間、水道橋北詰にある現在の都立工芸高校のある一帯にあったことによるらしい。
現在の橋は昭和36年架橋の橋で、北詰欄干には、「江戸名所図会」の「お茶の水」の図を彫った銅版が埋め込まれている。
橋の北詰からはお茶の水分水路の入口が見えるが、その真上の外堀通りの歩道は、現在親水公園のようなたたずまいになっている。
江戸時代には水道橋から上流にかけての神田川北側を市兵衛河岸と呼んで、物資の荷揚場とされていた流れであろうか、現在も簡素な防災船着場が存在する。
北詰から白山通りを北に向かうと、慶安年間(1648~52)に由井正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき)とともに幕府転覆を図った浪人丸橋忠弥(まるはしちゅうや)の道場があったことから名づけられた忠弥坂、その手前にある宝生能楽堂、讃岐高松藩松平氏の屋敷地跡に建つ金比羅宮東京分院があります。
南詰西側を少し行くと江戸時代に三代将軍家光の崇敬を受けて、参勤交代の諸大名に江戸参府の行きかえりに必ず参詣させたという三崎稲荷神社(現在は旅行の神様として有名)等の史跡が数多く存在している。

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お茶の水橋

駅の名前は「御茶ノ水」と全て漢字で表記されるが、橋の名前と地名は「お茶の水」と書かれるようである。

現在のお茶の水橋は、ラーメン橋+ゲルバー桁(鋼)であるが、明治24(1891)年に架けられた当時のお茶の水橋は、建築家の原竜太(はらりゅうた)設計による上路プラットトラス方式の橋であったようである。

お茶の水橋の外観2
お茶の水橋の外観2

お茶の水の地名の由来に関しては、慶長の昔、近くの神田山(かんだやま)の麓に高林寺(こうりんじ)という禅寺があり、寺の庭より良い水が湧き出したので、徳川二代将軍秀忠公に献上したところ、お茶に用いられ、大変良い水であるとのお褒めの言葉をもらい、それから舞地にこの水を差し上げたことから、お茶の水高林寺と呼ばれるようになり、界隈もまたお茶の水と呼ばれるようになったという言い伝えがお茶の水交番脇にある石碑に書かれている。

橋の名もその言われにちなむものであろう。この界隈を流れる神田川流域は、幕府の命により仙台藩主伊達政宗(だてまさむね)が補修にあたり、そのため仙台堀(せんだいぼり)と呼ばれる。

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聖橋

聖橋(ひじりばし)は本郷通りを渡す橋である。

震災復興橋のひとつとして昭和3年に架橋された白いアーチ形のこの橋の名前は、一般公募によるもので、北側の湯島聖堂(ゆしませいどう)と南側のニコライ堂という二つの聖堂を結ぶことにちなむという。

湯島聖堂の前身は、江戸幕府の儒学者、林羅山(はやしらざん)が上野忍ヶ丘(うえのしのぶがおか)に建てた孔子廟(こうしびょう)である。

元禄3(1690)年、生類哀れみの令で有名な五代将軍徳川綱吉の命により、湯島の地に移されて、名称も「聖堂」と改められたということである。 幕府直営の学問所として、全国の旗本、藩士の指定を集めて発展し、寛政9(1797)年に松平定信(まつだいらさだのぶ)による寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)によって朱子学以外が禁止されると、増築され、名称を昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と改めた。

学問所は明治時代に昌平学校(しょうへいがっこう)となり、明治10年の東京大学設立の母体の一つとなっている。

一方のニコライ堂は、正式名称を日本ハリストス正教会教団復活大聖堂といい、明治17年から24年までの足掛け7年で完成した日本最古のビザンチン様式の建築である。

ビザンチン様式は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の時代に発生した建築様式で、モザイクや小さな窓に特徴のある教会建築である。

後にギリシア正教会の教会建築などに使われるようになったもので、その流れでここニコライ堂はビザンチン様式で建てられることになったのだろう。

文久元年(1861年)から在日ロシア帝国領事館付き司祭として布教活動をした大主教カサーツキン・ニコライが依頼し、鹿鳴館の設計で有名なジョサイア・コンドルが設計監督を務めた名建築である。

聖橋は二つの聖堂を結ぶ聖なる橋なのである。

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御茶ノ水分水路、上は総武線鉄橋

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万世橋手前の川岸、昔の駅舎。このへんに交通博物館があった。

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万世橋

万世橋は、「中央通り」(国道17号)の上にある橋であり、電気街として名高い秋葉原の南端にある。

すぐ近くには今は廃止されてしまった「万世橋駅(まんせいばしえき)」の跡がある。

「万世橋駅」は「国鉄中央本線」の駅で、「神田駅」と「御茶ノ水駅」の間に存在した駅である。

駅舎は、「東京駅」を設計した「辰野金吾(たつのきんご)の設計で、1等・2等の待合室・食堂・バー・会議室を備える豪華な赤レンガ造りの駅は、中央本線の終着駅にふさわしい威容であったという。

この橋の歴史は、寛文16(1676)年に架けられた「筋違橋(すじちがいばし)」にさかのぼる。

徳川将軍家が歴代将軍を祭る「上野寛永寺(うえのかんえいじ)」に参る時に使う橋で、場所は現在の「昌平橋(しょうへいばし)」と「万世橋」の中間にあった。

「寛永寺」の創立者は江戸幕府の三代将軍徳川家光である。

開山(初代住職)は「天海僧正」、本尊は薬師如来である。

将軍家の祈祷書・菩提寺であり、歴代15人の将軍の内6人が寛永寺に眠る。

17世紀半ばからは皇族が歴代住職を勤め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山である。すぐ南には「筋違見附(すじちがいみつけ)」があった。

江戸城には三十六見附と言われるように36の見附があり、現在も地名に残っているものとしては「赤坂見附(あかさかみつけ)」がある。

見張番などを置いた城門などの施設のことを一般に見附と呼ぶ。

将軍家が通る橋なのだから、この近くに見張りのための施設があったとしても不思議はないし、むしろ当然である。

これが明治5年に取り壊されて、廃材を利用して筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋となり、当時の東京府知事であった「大久保忠寛(おおくぼたたひろ)」が「萬世橋(よろずよばし)」と命名したが、音読みの「まんせいばし」の名前の方が一般化したらしい。

別名「眼鏡橋」とも呼ばれて、親しまれた橋のようである。

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江戸時代からの船宿の老舗、三浦屋

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浅草橋

浅草橋は、江戸時代初期の頃から奥州街道に通じる交通の要衝として重んじられてきた橋である。

架橋年は定かではないが、慶長年間(1596~1615)の江戸図にもその姿が描かれており、江戸開府とほぼ同時期に作られたのではないかと考えられる。

奥州街道は、後の日光東照宮への参詣道として整備され、日本橋を基点として浅草橋、蔵前、雷門、小塚原、千住大橋を経て千住宿、草加、越谷方面に続き、江戸時代には日光道中を称していたらしい。

南詰は、江戸城外郭門「浅草口」の跡地で、寛永13(1636)年に枡形櫓が造営され、浅草見附として番士がおかれたという。

明暦3(1657)年の大火の時には、現在の日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の非常措置として囚人が仮釈放されたが、浅草口に押し寄せた囚人たちを番士が集団脱獄と勘違いして門を閉ざしたことから、猛火に追われた市民が避難路をたたれて神田川に落ちるなど、二万人余りの死者を出したと伝えられる。

橋の北詰西の「浅草見附跡」の碑の後ろ側は、浅草橋公園という公園があるが、そこにかつて川の底の黒土をすくいあげて左官業者などに販売していた土屋である「つち鉄」の看板がある。

浅草橋から北に続く日光街道の両側には、古くは一面の茅原であったことにちなむ茅町の町名があるが、浅草寺に続く参詣道と神田川の船運という立地条件が重なり、江戸時代から参詣土産の人形問屋が並んでいた。

久月、吉徳といった老舗をはじめ、人形で飾られたショーウインドウが国道沿いに今も並んでいる。

浅草橋南詰め西側には、関東の諸代官を統括した関東郡代屋敷跡がある。

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柳橋

柳橋はこのサイト神田川写真集、東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋の最後の橋です。

神田川最下流の橋で、東京都中央区と台東区に、またがって架けられている。

もともとは神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったということである。

元禄年間(1698年)に初架橋。現在の橋は関東大震災の後につくられた鋼鉄製のものである。

江戸時代には「浅草橋」と「柳橋」の間の河岸が遊郭で有名な吉原に通う「猪牙舟(ちょきふね)」など様々な舟遊びの場となり、周辺には船宿や料理屋が並んでいた。

「河岸」とは狭義では河川・運河・湖・沼の岸に作られた港や船着場のことであるが、江戸時代には河岸に問屋を商う商人やその蔵が集まって一つの商業集落をなしたことから、広義には、町・村そのものを指すと言ってもよい。

柳橋は、そのような河岸の一つとして「柳橋芸者」で知られる花街のイメージもあるところである。

正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」と歌われた花街としての賑わいは、辰巳芸者で有名な深川花街が江戸幕府の寛政の改革・天保の改革の風紀の粛清・質素倹約の流れの中で弾圧を受け、芸者衆が集まってからのことである。

以来明治時代以降も、文人・画家に愛された花街「柳橋」であったが、現在花街の風情を残すのは橋近くの料亭「亀清楼(かめせいろう)」のみとなっている。

欄干の「花かんざし」は、花街のイメージとして平成4年に柳橋がローゼ形式でリニューアルされた時に埋め込まれたものである。

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清洲橋[隅田川]

関東大震災の復興事業として1928年に竣工。両岸の地名から一字ずつ取って名付けられた。ドイツにあるライン川の吊り橋をモデルにデザインされ、流れるようなフォルムは”女性的”と形容されることも。

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ガイドさんが、昔の永代橋を見せている。

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ガイドさんが、ここから見る広重の絵を見せている。

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清洲橋

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東京スカイツリーのベストポジション

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永代橋[隅田川]

徳川幕府の時代に架けられ、夏は納涼の名所として知られた。関東大震災で被災し、1926 年に現在の鉄橋に。放射線状の大規模アーチは重厚で、清洲橋に対して”男性的”と評される

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豊海(とよみ)橋[日本橋川]

日本橋川と隅田川の合流地点に位置し、関東大震災後の1927年に架け替えられた。近くにある永代橋とのバランスを考慮し、梯子を横倒しにしたような珍しい形をしている

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川岸の紅葉

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佃大橋

佃大橋(つくだおおはし)は、隅田川にかかるで、佃大橋通りとも呼ばれる東京都道473号新富晴海線(旧東京都道304号線明石町晴海支線晴海通り)を通すである。隅田川右岸においては北が東京都中央区三丁目、南が中央区明石町。同左岸では中央区一丁目と中央区月島一丁目を分かつ。地下にて東京メトロ有楽町線と並行する。

右岸側では隅田川の手前100mほどの位置から高架が始まり、左岸では月島全幅にわたって高架(新月陸橋)のまま、朝潮運河に架かる朝潮大橋へと繋がっている(但し新月陸橋徒歩では渡ることができないので、佃大橋と朝潮大橋を通して歩く歩行者は一旦新月陸橋の下の歩道に下りて歩く必要がある。)。これは桁の下面から水面までの距離を勝鬨橋と合わせたためである。また他の隅田川にかかる橋は川に対してほぼ直角に交わっているが、佃大橋は中心線が岸に対して60度ほど斜めになっている。

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佃の紅葉

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築地、聖路加病院

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亀島橋

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霊岸橋

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日本橋水門

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左上の建物、JPX(東京証券取引所)

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ガイドさん、江戸時代ここから書いた広重の絵

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日本橋に到着

日本橋船着場から、気楽に神田川クルーズが出来るようになりました。半日の旅でも、日帰りの旅でも自由プランで行けます。

神田川クルーズに乗って

日本橋川から神田川そして隅田川と都心の川めぐりをした。前から、都心の川から上の景色を見たかったからだ。上からの眺めと、川からの眺めとでは、ぜんぜん違った景色となる。江戸城石垣も川からみると、まだ、だいぶ残っているようにみえる。全体の印象だが、川の臭いもなくなってきたが、まだまだ景観はイマイチの感じだ。国民に川に関心を持ってもらうようしないといけないと思う。

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

  • 👟佐倉市岩名運動公園クロスカントリーコースに挑戦しています🏃‍♂️

  • 原子力航空母艦ロナルド・レーガン停泊中の横須賀港にヨリミチ🚣‍♀️

  • 佐倉市民ハイキングで伝統的民俗文化、大蛇の魔除け🐍佐倉市「井野の辻切り」を堪能🐍

  • 🌸河津桜が咲きはじめ、梅林坂の紅白梅も綺麗に咲いている皇居東御苑をヨリミチ‼️

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