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成田空港からLCC(格安航空会社)で関西空港へ日帰りの旅。大河ドラマ、真田幸村の九度山へ行く!!

成田空港からLCCで関西空港へ日帰りの旅!

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成田空港からLCC(格安航空会社)で関西空港に行き、レンタカーで、大河ドラマの真田幸村の里、紀州九度山へ行き、世界文化遺産の高野山町石道で、慈尊院(じそんいん)、丹生官省符神社(にゅうかんじょうぶじんじゃ)にも日帰りで行ってきました。

 

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真田幸村の家系図

真田幸村の家系図

略年表
永禄10年 出生。
天正13年 19歳、真田家と上杉家が同盟を結んだ為、人質として越後へ赴く。
天正18年 24歳、北条氏攻めに参加。松井田城の攻略で初陣する。
文禄3年 28歳、従五位下左衛門佐に任じられる。大谷吉継の娘、安岐姫と婚姻。豊臣姓を賜る。
慶長5年 34歳、石田三成に呼応し父昌幸とともに西軍に参加、信州上田で徳川秀忠軍を足止め
するが、関が原で東軍家康が勝利し父とともに高野山九度山へ配流される。
慶長19年 48歳、豊臣方の要請により息子大助とともに九度山を抜け出し大坂城へ入城。
慶長20年 49歳、大坂夏の陣にて家康を窮地に追い込むが、討死。

戦国武将 真田幸村誕生

1567年、真田幸村は武田家に仕える信濃国(長野県)に昌幸の次男として、誕生しました。
幸村は初陣の時、わずか三百の兵で四万余りの敵に遭遇するものの、闇夜にまぎれて奇襲攻撃をしかけ敵を大混乱させるなど、若くして父譲りの軍才を発揮します。

その後、1600年の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と幸村は西軍に、兄・信幸は東軍につくことになります。昌幸と幸村は上田城で東軍の徳川秀忠軍を食い止め、決戦場(関ヶ原)に遅参させるなど奮闘したものの、肝心の関ヶ原では、西軍が敗れてしまいます。徳川家康は昌幸と幸村を死罪にするつもりでしたが、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、特例として2人に高野山での謹慎を命じました。

 

紀州九度山

九度山での忍耐の日々

高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に高野山の麓・九度山に移り住み、来るべき日に備えて兵術や水練の特訓を重ねます。また、刀の柄に巻く丈夫な真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせて、諸国の動静を探ったり、資金集めをしたりしていたと言われています。

しかし、父・昌幸は再起の夢も虚しく、1611年に病死しました。その後の幸村は、兄・信幸の仕送りに頼るほどの苦しい生活を送っていました。

 

真田紐(サナダヒモ)

真田庵(さなだあん)

真田庵外観

善名称院、真田庵とも呼ばれ、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺。本尊に延命子安地蔵菩薩を祀り、かつてはお地蔵さんとして賑わいをみせたこともあったそうです。春にはボタンが咲き乱れ、真田まつりでは武者行列のゴール地点として、賑わいをみせています。

九度山からいざ激闘の地へ

やがて、豊臣と徳川の関係が悪化すると、豊臣の使者が「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」と幸村のもとに尋ねてきます。幸村は感極まって、すぐさま快諾します。14年間住んだ九度山で、幸村は周辺の農民とも親しくなっており、幸村の心境を察した農民は幸村親子の出立に協力したようです。こうして、幸村は九度山の人々に温かく見送られながら、妻と子・大助とともに大坂城に入城します。

徳川軍も認める武将としての真田幸村

1614年、大坂冬の陣が始まる時、幸村は精鋭部隊の証である鎧や武具を赤に統一し、「真田の赤備え」として、戦場で目立つ結束と武勇を示しました。幸村は、大坂城南側に土作りの頑固な出丸「真田丸」を築いて徳川の大軍を迎え討ち、その武名を天下に知らしめしました。翌年、大坂夏の陣でもわずかな兵で家康を狙い、戦列を変えて3度も本陣への突撃を繰り返すなど、家康に自害を覚悟させるほど追いつめましたが、怪我をして休んでいるところを討ち取られてしまいます。享年49歳でした。

その後、幸村は徳川軍として参戦した薩摩国(鹿児島県)の島津家に「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」と賞賛されるなど、幸村に仕えたと言われる「真田十勇士」とともに語り継がれ、今もなお根強い人気を誇っています。

 

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真田幸村物語

真田十勇士

戦国時代最後の武将、真田幸村はかつてこの九度山町に隠棲していました。幸村の活躍ぶりは猿飛佐助、霧隠才蔵をはじめとする真田十勇士の伝説などで有名ですが、その生涯については意外に知られていません。
そこで、真田幸村をより深く知っていただくために紹介するのが、この真田幸村物語。あなたが知らなかった幸村がきっと見えてくるはずです。

真田庵

幸村父子が14年間暮らした地、九度山。その跡地に建つ善名称院(ぜんみょうしょういん)。「真田庵」と呼ばれ、今も多くの人が訪れる。

真田幸村が生涯でいちばん長く過ごした九度山。
まちなかでは、あちらこちらで真田の旗印「六文銭」を見ることができます。

六文銭の旗印は戦上手の証し
真田幸村

1567年(永禄十年)、武田氏に仕える信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生しました。これが後の真田幸村です。

1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦に破れ、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。「わが軍は、わずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか。」思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進み出ました。
「父上、私によい考えがあります」
「おお、幸村か。よい考えとは何じゃ」
「私に紋のない旗をお与え下さい」
幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着いたのです。

「でかしたぞ。幸村。これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」
こうして、幸村は六文銭の旗印を持つことになったのです。
幸村の命運をも分けた関ヶ原の戦

真田昌幸

天目山の戦の後、真田氏は徳川氏に仕えましたが、北条氏との和睦の件で家康と対立、昌幸の長子信幸は徳川氏側に残りましたが、昌幸と幸村は豊臣秀吉に仕えることになったのです。

1600年(慶長5年)、天下分け目の関ケ原の合戦で幸村は父と共に西軍に加わり、持ち前の軍才を生かして秀忠の大軍を相手に大勝を収めました。

しかし西軍は敗退。幸村は死罪に処せられるところでしたが、東軍についていた兄信幸の嘆願により、これを免れました。
「真田昌幸とその子幸村に、所領没収ならびに高野山蟄居を命じる」

これに従って同年10月9日、幸村父子は真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せました。昌幸53才、幸村33才の時のことでした。

真田庵

九度山に隠棲して、再起を待つ
こうして幸村父子の隠棲生活が始まりましたが、高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に庵を九度山に移しました。その跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、真田庵です。

 

戦国時代と共に終わった生涯

真田大助

時は流れて1614年(慶長19年)春、豊臣秀頼の使者が幸村の庵を訪れました。
「この度、我等は徳川氏を滅ぼさんがために兵を挙げることになった。ついては、幸村殿にも力を貸して頂きたい。」
「承知いたしました。秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」

3月18日、幸村は大助と共に14年間住み慣れた九度山を後にしました。父昌幸は既に亡くなっていました。

大坂冬の陣では、南側の最も重要な地点に出丸を築いて空堀をめぐらせ、戦術を尽くして関東軍を悩ませました。その後、一旦は和睦が成立したものの、翌年再び夏の陣が起こりました。大坂城は和睦中に外堀を埋められて守りもままならず、兵士たちの気力も限界に達していました。
「ううむ。もはやこれまで。」
幸村は決死の覚悟で徳川の軍勢に討ちかかりました。その勢いはあわや本陣に迫るかという凄まじさで、さすがの家康も浮き足立ちました。

しかし茶臼山附近での激戦の末、幸村は壮烈な最期を遂げました。享年48才でした。
「幸村の戦いぶりは敵ながらあっぱれであった。以後、江戸城内において幸村を誉め讃えることを許そう。」

家康もまた、同じ戦国武将として幸村に感服していたのです。
軍才に秀でながらも、時代の波に押され大坂夏の陣に散った悲劇の武将真田幸村は、さまざまな伝説や物語で後の世に語り伝えられ、私たちの心の中に生き続けています。

(九度山町HPから一部転載)

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慈尊院(女人高野・結縁寺)、弥勒堂

国の重要文化財に指定されています。
桧皮葺の低い建物で、中は方三間。平安時代末期の輪郭を残しています。
お母様が亡くなった後、弘法大師はお母様が篤く崇拝していらっしゃった弥勒菩薩座像と御母公像を安置するため、弥勒堂を建てられました。今も弘法大師のお母様の御利益をいただきたいと、多くの女性が訪れます。

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慈尊院 九度山

 

慈尊院は、弘仁七年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。

<慈尊院の由来>

大師の御母公(玉依御前 : たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子の開いている山を一目見たいとの一念から、ご高齢にも関わらず当院へ参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられた。承知二年二月五日に、御母公が入滅された時に大師は、母公が弥勒菩薩になられた霊夢により廟堂を建立して、自作の弥勒仏と御母君公の霊を安置された。慈尊院とは、弥勒菩薩の別名で、これより表向きに「慈尊院」と呼ばれるようになりました。

<信仰>

弘法大師御母公との結縁寺として知られるようになった慈尊院では、大師の御母公(玉依御前)の化身とされる弥勒菩薩さまへ「子宝、安産、育児、授乳、病気平癒」を願って、「乳房型絵馬」をご奉納して祈願するという日本全国でも珍しいお寺。女人高野と称される当院にはそのご利益を願って多くの女性により信仰を集めています。その他、慈尊院では各御祈願・ご供養も行っております。詳細内容はこちら

<建造物に関し>

● 文明六年(1474)
    ご廟を現在の場所に移されました。

● 天文九年(1540)
    紀ノ川の氾濫により慈氏寺諸堂の大半は流れ、残った堂塔を弥勒檀に縮小移転し、
    天文十年三月、落慶供養をされたが、高野山も政所の事務を山上に移し、宝蔵の什宝を
    すっかり山上に運び上げてしまいました。

● 天文十三年(1544)、七月
    再度、紀ノ川に大水が出て、残っていた旧慈氏寺は、みな流され紀ノ川床となって
    しまいました。

 

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慈尊院、弥勒堂

「弥勒堂」は弘法大師の創建になるものいわれ、当初の本尊「弥勒菩薩」は弘法大師の作になると伝えられていたが、現存の本尊「弥勒菩薩」は寛平4年(892年)の銘があるようで、作者は会理仏師とされている。これが正しいとすれば、この本尊が製作されたのは、弘法大師の母の死後約60年を経過しているので、大師の母が信仰していた弥勒菩薩ではないことになる。

本尊「弥勒菩薩」は厳重な秘仏とされ、国宝に指定されている。

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慈尊院にまつわるいわれ

乳房型の絵馬

女人の高野

女人高野のいわれがあるため、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って乳房型、絵馬を奉納する女性が多く訪れます。

「九度山」の名の由来

弘法大師は月に九度(9回)、高野山からお母様に会いに来られました。そうしたことから、この地は九度山と名付けられたという説があります。

「慈尊院」の名の由来

慈尊院の本尊である弥勒菩薩は、別名「慈尊」といい、そこから慈尊院と呼ばれるようになりました。お母様の命日が6月5日であることから、毎月5日は弥勒縁日となっており、ご近所の方々がお参りになっています。ほかにも多くの仏様が祀られております。

  • ポックリさん
    長生きしても迷惑をかけずに極楽往生
  • ビンズリさん
    痛む箇所を手でさするとよくなる。ビンズリさんはお釈迦様の弟子で実在した人物
  • 四国堂
    弘法大師がご本尊で、四国八十八ヶ所のご本尊が脇に祀られる
  • 弁財天
    知恵、学業成就
  • 稲荷明神
    財宝の成就
  • みろく石
    片手で撫でて、ご本尊と縁結びする
  • カルテンさん
    子育ての成就

高野山町石道との関係

九度山町から高野山へと続く約21キロの道程で、今も一町(109m)ごとに卒塔婆石が残り、歴代天皇や法皇、関白や将軍をはじめ一般庶民が、現在に至る千余年の間、ふみかためてきた信仰の表参道です。

その入り口となる180町石がこの慈尊院にあります

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慈尊院、拝堂

「多宝塔」の東側、「山門」から「丹生官省符神社」に上る石段の下まで通じている参道を隔てて「拝堂」(左の写真)が建てられている。左の写真は「拝堂」の西面と南面である。「拝堂」の南面が正面になっているが、これは「拝堂」の北側にある「本堂(弥勒堂)」に安置されていの本尊を礼拝するようになっているためであろう。

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慈尊院 多宝塔(県指定文化財)

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慈尊院(女人高野・結縁寺)

平成16年7月世界遺産に登録された慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。(当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられていますが、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失しました。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれました。

「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしておられました。

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おっぱい絵馬

慈尊院は女人高野のいわれがあるため、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って乳房型の絵馬を奉納する女性が多く訪れます。ここ近年特に多いのが、乳がん平癒の祈願。近くの病院と乳がん患者らが、乳がん撲滅と病気平癒を祈願して奉納した特大絵馬はニュースにも取り上げられ、乳がん撲滅の象徴であるピンク色のお守りは、全国から求める人が絶えません。
奉納されている沢山の「おっぱい絵馬」はそれぞれ手作り。家族の健康のため、子供の健やかな成長のためと、個々が願いを込めて作った「おっぱい絵馬」には、女性の切なる願いが溢れています。

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悩める女性必見!九度山の女人高野・慈尊院で「おっぱい」についてお願いしよう!

開創1200年の高野山の麓にある九度山に、「女人高野」と呼ばれる「慈尊院」があります。ここは一時、弘法大師の御母公が暮らしておられた場所。女人高野の云われから、今でも女性の参拝者がよくお参りに訪れます。彼女たちの願いは「おっぱい」にまつわること。安産、授乳、育児を願うものから、乳がん平癒まで様々。境内にはおっぱいの特大絵馬が飾られ、参拝者がそれぞれ作ったおっぱい絵馬も奉納されています。

 

弘法大師の母が入滅して弥勒菩薩に化身したという信仰から、慈尊院が女人高野と呼ばれるようになったと言うことは縁起の項に記載したが、このことから女性の信仰が篤く、女性の厄除けに「乳房形の絵馬」が奉納されている。

 

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慈尊院(女人高野・結縁寺)

お問い合わせ

慈尊院(じそんいん)
〒648-0151
和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
電話 0736-54-2214
ホームページ http://jison-in.org/このリンクは別ウィンドウで開きます

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丹生都比売神社(にゅうかんじょうぶじんじゃ)

弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社です。社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。

神社ができた当時の位置は、現在の渡し場の東にあたる宮の橋の付近であったと考えられています。その後、河北から高野領地となり、官省符21ヶ所村が成立しますと、その総氏神として栄えてきました。慈尊院の弥勒堂が現在の位置に移された際、この神社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。その時、天野神社にならって気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、なお、古くからこの地に鎮座していた天照、八幡、春日の三神を合わせ祀って七社明神としました。

 

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 「山門」から真っ直ぐに南の方向に進むと「丹生官省符神社」に上がる石段がある。その石段を少し上がると右手に「町石」(左の写真)が見える。

「慈尊院」から高野山までの参道(町石道)に、一町(約109m)毎に道標が建てられているが、当初は木造の卒塔婆だったという。その後、文永2年(1265年)から20年の年月をかけて石造りに改められたといわれている。現在まで若干の補修があったようであるが、多くは創建当時のままらしい。

左の写真は「慈尊院」にある第一番目の道標、「町石」である。

「町石」は写真でもわかるように高さ約3mの石柱で、「慈尊院」から高野山の伽藍まで180本、伽藍から奥の院御廟まで36本ある。「町石」は道標であるが卒塔婆でもあり、かつて参拝者は一町毎に手を合わせ祈りながら登山したという。町石道は「山門」の寺名札にも書かれているように『祈りの道』である

 

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この奥の拝殿が国宝、世界文化遺産

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五輪塔

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高野山町石道

慈尊院から高野山へ通じる180本の町石が続く参詣道を高野山町石道といいます。弘法大師が高野山開山の際、木製の卒塔婆を建て道しるべとした道で、鎌倉時代には、朽ちた木製の代わりに覚きょう上人の発願により、20年の歳月をかけて石像の五輪塔形の町石が1町(109m)ごとに建てられました。古い昔から、この道は高野山参詣の表参道として、多くの皇族や武士たちが登っていきました。今も、たくさんの方々が遠い昔の思いとともに、この道を登っていきます。

五輪塔とは

宇宙を形成する物質は、「空」「風」「火」「水」「地」の5つの要素によりなると、仏教では考えられています。この5つの構成要素を「宝珠」「半月」「笠」「円」「方形」にかたどったものが五輪塔です。それぞれの部分に5つの要素を意味する梵字(サンスクリット語)が刻まれています。

 

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関西空港、左のエスカレーター下にレンタカー会社が並んでいる。

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関西空港からレンタカー会社の入口は左側から

成田空港からのLCCは成田空港第3ターミナルから発着。日帰りの旅できます。

 

紀州九度山に行ってきました。

現在、NHK大河ドラマ、真田丸の主人公、真田幸村が14年間隠遁した、九度山付近を、成田空港からLCC(格安航空会社)で関西空港経由で日帰り旅行してきた。当初、家康から高野山に蟄居を命じられたが、理由は定かではないが、九度山に移り住んだ。九度山の世界文化遺産である慈尊院、丹生都比売神社、高野町石道もみてきた。駆け足の日帰りの旅であったが、要所要所のポイントを押さえてきたので、少し歴史の深みが増して帰ってきた。今回も有意義な日帰りの旅であった。

 

 

 

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ライター紹介

Tokkyna

千葉県佐倉市在住
東京都江戸川区小岩出身

趣味:古地図による散策(特に裏道が大好き)
    LCCによる全国歴史探訪(特に城壁のそりが大好き)

この人が書いた記事

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