今も江戸時代、元禄の風情が残る護国寺をよりみち!

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真言宗豊山派 大本山 護国寺
護国寺は神齢山悉地院と号し、天和元年(1681)5代将軍綱吉の生母・桂昌院の発願により、上野国(群馬県)大聖護国寺の亮賢僧正を開山とする真言宗豊山派の大本山です。現在の本堂となる観音堂は、元禄10年(1697)正月に新営の幕命が下り、5月23日に上棟、同年の7月27日には落成を迎え将軍綱吉と桂昌院が参詣し、8月9日には落慶供養が行われたと伝えられています。大造営が短い期間に行われたことを物語っています。
本堂の構造及び形式は、桁行7間、梁間7間、一重、入母屋造、向拝3間、瓦棒銅板葺です。その後の修理はなく、ほぼ創建当時のままに遺存している建物です。徳川幕府の最盛期でその権威と財力を結集し、優れた棟梁や職人を動員して建造され、和様(わよう)、唐様(からよう)の折衷様式の雄大にして華麗な元禄文化をここに見ることができます。また、護国寺から江戸川橋へ抜ける音羽通りは、京都の朱雀大路(すざくおおじ)を模して整備されたといわれ、護国寺の広大な境内では、諸仏のご開帳、年中行事、花見、紅葉狩りなど四季を通じて江戸町民に親しまれてきました。
その他指定文化財も数多い。
明治期以降徳川家との関係が絶たれ、一般人の墓所を造成した。
三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信などが眠る。
【所在地】東京都文京区大塚5-40-1[地図]
【お問い合わせ先】03-3941-0764
【交通のご案内】
東京メトロ有楽町線「護国寺」駅より徒歩1分
都バス都02乙、上58「護国寺正門前」より徒歩1分
※文京区コミュニティバス「Bーぐる(目白台・小日向ルート)」をご利用の場合、「15番:アカデミー音羽」「16番:護国寺駅」が便利です。
護国寺仁王門
元禄時代の建築。地下鉄護国寺駅を降りるとすぐに見える、護国寺への入り口です。
護国寺に限らず、お寺の門や本堂にかかっている五色幕(ごしきまく)。白・翠・黄・赤・群青の5色は釈迦如来の説いた教えを広める仏教寺院であることを表しているそうです。護国寺の宗派である真言宗では5つの智慧を表す色・五智如来を象徴する色でもあります。
(区指定有形文化財)
護国寺不老門
1938(昭和13)年築。京都の鞍馬寺山門を模した建築で、門の正面に高く掲げられた「不老」の二字は、徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)が執筆したもの。
唐銅蓮葉形手洗水盤
綱吉の母・桂昌院が寄進したものとされています。もともとは1697年(元禄10年)に鋳造されたもので、元禄から明治・大正期は護国寺境内の湧水を利用した手洗水盤でした。現在使用されているものは改修復元されたものです。
護国寺居住ネコ
本堂裏の大イチョウ
護国寺惣門
元禄中期に建てられた惣門。元禄中期に建てられ、文京区指定文化財です。寺社仏閣の門とは異なり江戸時代の武家・大名屋敷の表門の形式をとっていて、寺社の門であると同時に住宅の門としての役割もありました。護国寺は幕府から厚い庇護をうけた格式の高い徳川将軍家のお寺でした。
護国寺の境内地図
お寺が創建された元禄時代に建てられた貴重な建造物が残っていて、文化的にも価値のあるものが多いのが見どころです。1883年(明治16年)と1926年(大正15年)の二度にわたり江戸を襲った大火で焼失してしまった建物もありますが、関東大震災や太平洋戦争を乗り越えて、現在も当時の面影をのこしている門やお堂は一見の価値ありです。この地図の伽藍配置をもとに代表的な建造物を見ていきましょう。
民謡の碑
からすの赤ちゃん歌詞の碑
童謡の作詞・作曲家、
海沼實に捧げられた石碑である。
私立獣医学校発祥の地の碑
音羽富士
一合目
二合目
富士塚の音羽富士
富士山を模してつくられた小さな丘ですが、昔の人はなかなか富士登山に行く機会がなかったため、こうして富士山に見立てた小さな丘を作って富士登山の疑似体験をしていたのです。約2分ほどで頂上まで上ることができ、頂上付近に溶岩があり、頂上には石祠と浅間神社の標柱があります。都内にはいくつかの富士塚が残っていますが、お寺のなかにある富士塚はここ、護国寺のみです。
江戸時代、文化年間と書かれている石柱
気象温暖化の影響か?
護国寺は、東京・文京区にある真言宗豊山派大本山のお寺です。1681年(元和元年)に五代将軍徳川綱吉が母である桂昌院の願いより創建しました。桂昌院の念持仏「琥珀如意輪観音」を本尊としています。桂昌院は観音信仰が篤く、綱吉にも大きな影響を与えました。有名な「生類憐れみの令」も、母桂昌院と親交があった隆光僧正の勧めによるものと言われています。
本堂(重要文化財)
所在地 東京都文京区大塚五丁目40番1号
山号 神齢山
宗派 真言宗豊山派
寺格 大本山
本尊 如意輪観世音菩薩
創建年 天和元年(1681年)
開基 桂昌院、亮賢(開山)
正式名 神齢山 悉地院 大聖護國寺
札所等 御府内八十八箇所 87番
江戸三十三箇所 13番
東国花の寺百ヶ寺 東京3番
文化財 本堂、月光殿、絹本著色尊勝曼荼羅図ほか(重要文化財)
護国寺の縁起
護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建、江戸幕府から寺領1200石の御朱印状を拝領、真言宗豊山派の大本山です。
「小石川区史」による護 国寺の縁起
神齢山悉地院護國寺。新義真言宗豊山派大和長谷寺末。本尊は琥珀如意輪観世音菩薩、開山は亮賢僧正である。當寺の草創については『江戸名所圖會』に『求凉亭云く、當寺は京の清水寺を模さるる故に、前の町を音羽と名付け、又青柳町、櫻木町など名付けられ、又音羽町九丁あるも、京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ』とあり、天和元年、将軍綱吉が母公桂昌院の請に依り、元の高田御薬園の地へ一寺を建立し、桂昌院の念持佛であつた天然琥珀観音像を本尊とし、寺領三百石を寄進したのに始まる。
その後桂昌院及び綱吉も度々参詣し、元禄七年には寺領三百石を加増して六百石とし、同十年には幕命によつて観音堂を造營し、更に寺領百石を増し、十六年には五百石を加増して、凡そ千二百石の朱印を給はつた。かうして本寺は善美を盡せる大伽藍を擁し、将軍の祈願所として、府内屈指の巨刹として、誰れ一人知らぬものがないほど著名になつた。
享保五年神田護持院が焼失した時、幕命に依つて、護持院を當寺に併置し、観音堂の方を7護國寺、本坊の方を護持院と稱し、護持院の住持が當寺を兼攝した。兩寺領凡て二千七百石を賜はり、其規模の壮大であつた事は、『江戸名所圖會』所載の護持院、及び護國寺の圖を見ても知られる。又府内八十八ヶ所の八十七番札所としても多くの参詣者を集めた。
明治維新後、護持院は復職して、寺號を廢したが、護國寺は開山以来の法派を保持し、従来護持院と稱した部分の堂宇も護國寺分に復した。然るに明治十六年失火して舊本坊を焼失し、更に大正十五年には天和草創當時の本堂たりし大師堂を失つたが、本坊は直に再建し、元禄時代に建築した薬師堂を大師堂跡に移して大師堂とした。
現在の本堂は元禄十年建立の観音堂で、その結構は雄大であり、元禄時代の代表的建築物として、寛永時代に建立された浅草寺本堂と併稱せられ、都下の江戸時代代表的大建築として特別保護建造物に指定されて居る。また昭和三年、原氏の寄進になる月光殿が有る。これは元滋賀縣大津市の三井園城寺の中院にあつた日光院の客殿で、桃山時代の書院作りの形式を備へた代表的建築物の一つとして、特別保護建造物に指定されて居り、桃山時代の建築としては東都随一の物である。
尚ほ本堂の側に、畿内各地の名物を模造して高橋箒庵居士の寄進した石燈籠二十基があり、東都の一名物として好古家の推賞する所となつてゐる。又大師堂前には同じく箒庵居士の盡力に依つて成つた茶亭、仲麿堂及び圓成庵がある。斯く由緒が深い寺であるだけに、寺寶の數も多く、又見るべき物も少くない。
當寺の墓地は明治二十四年三條實美公の墓地に選ばれて以来、山田顯義伯、大隈侯、山縣公、二荒伯、田中伯、酒井伯、島津公、南部伯、平田伯、河野盤州、梅謙次郎、竹添進一郎氏等維新の元勲を始め、多くの近代名士の墓域となり、俗に『公園墓地』の稱がある。
是等の諸建築物や墓地を有する當寺は概ね丘陵の上に有り、境内頗る廣濶、林樹風致に富み、築山、池水等もあつて公園の趣を呈し、又音羽通り十數町を其門前町とし、現に市内屈指の佛刹である。
當寺は現在新義真言宗豊山派別格本山で、寺内には豊山派宗務所、豊山中學校等があつて、同派政教の中心をなし、又その社會事業部は幼稚園、職業紹介所、兒童圖書館等を経營して、社會事業にも相當の活躍を見せてゐる。(「小石川区史」より)
鐘楼(付梵鐘)
江戸時代中期の建築。鐘楼は袴腰付重層入母屋造の非常に格調高いもので、梵鐘は、ほぼ創建時の1682(元和2)年に寄進されたもの。銘文には将軍徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられています。
(区指定有形文化財)
護国寺大師堂へ行く小径
護国寺大師堂の裏
護国寺大師堂
1701(元禄14)年築。
飾りが少なく素朴ながらも、どっしりとした重厚な雰囲気が特徴です。元々は薬師堂として建てられましたが、1926(大正15)年の大火によって用途が変更され、現在地に移築の上で大師堂となりました。
(区指定有形文化財)
護国寺筆塚
護国寺居住ネコ
護国寺多宝塔
1938(昭和13)年築。石山寺(滋賀県大津市)の多宝塔をモデルに建てられました。
月光殿は桃山時代の建造で国の重要文化財に指定されています。近江「三井寺」の塔頭・日光院客殿で、1888(明治21)年に品川御殿山に移築されていましたが、その後1928(昭和3)年に現在の地に移築されました。裏の建物が月光殿。
明治維新後の護国寺
護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られた。これは1873年(明治6年)の明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。また、西側の5千坪は陸軍用墓地となり、境内は2万坪ほどに縮小した。(現在、陸軍墓地は護国寺墓地の一角に整理されている)
また、稚瑞照彦尊の生母、葉室光子も1873年に亡くなるが、皇族墓地に入れず、護国寺境内に葬られた。のち、境内に三条実美、山県有朋、大隈重信らの墓所が造られた。
三条実美の墓
三条実美(1837~91年)は、幕末に長州派の公卿として活躍し、明治時代には太政大臣や内大臣、内閣総理大臣(代行)などを歴任した人物です。
大隈重信の墓
言わずと知れた大政治家。彼が関わった憲政会や早稲田大学の文字も見えます。
本殿裏の大イチョウ。静かな雰囲気を醸し出している。
護国寺のよりみち
地下鉄有楽町線の護国寺駅で途中下車1分。いつか途中下車して、ゆっくりと境内を見てみたいと言う願望は、有楽町線を乗るたびにあった。今回、思い切って下車して、境内を散策してみた。江戸時代、徳川幕府の庇護から明治維新後の護国寺の、凋落は凄まじいものがあったようだ。江戸時代5万坪の敷地が2万坪になったのがその証拠。乗り越えて今がある。境内が広いのでゆったりした気分で、散策できたことが嬉しい。