佐倉市・文豪・吉川英治の母の里と印旛沼ミニハイク!

Contents
- 1 日帰り旅行
- 2 城下町佐倉から江戸方面の旧成田街道をたどる。
- 3 コース
- 3.1 石仏 庄右衛門塚
- 3.1.1 海隣寺坂(おっぺし坂)
- 3.1.2 こちらの町が両町。向こう側は、片町。橋の名前が両町橋。
- 3.1.3 外堀は現在、道路の関係上、「くの字」に曲がっているが、江戸時代は直線であった。
- 3.1.4 史跡 市営菖蒲園跡の碑
- 3.1.5 右が現在の鹿島橋。手前の岸から旧橋が架けられていた。水位が低い時に、橋の杭がみえる。
- 3.1.6 旧成田街道
- 3.1.7 現在の鹿島橋
- 3.1.8 鹿島川、上流をみる
- 3.1.9 旧成田街道
- 3.1.10 馬頭観音
- 3.1.11 角来馬頭観音の由来
- 3.1.12 八幡神社(角来)
- 3.1.13 八幡神社から歴博、佐倉城址公園方面をみる
- 3.1.14 出羽三山参拝記念碑
- 3.1.15 吉川英治の母の生家
- 3.1.16 大雄寺
- 3.1.17 佐倉ふるさと広場
- 3.1.18 飯野竜神橋
- 3.1.19 吉川英治の歌碑
- 4 内郷社協ミニハイクに参加して
日帰り旅行
城下町佐倉から江戸方面の旧成田街道をたどる。
コース
京成佐倉駅前ー海隣寺坂ー愛宕坂ー田町ー外堀ー史跡、市営菖蒲園跡ー鹿島橋ー角来ー 石仏 堀田観音ー八幡神社ー史跡 吉川英治の母の生家ーふるさと広場ー竜神橋ー石碑 吉川英治の歌碑ー下根ー京成佐倉駅前
石仏 庄右衛門塚
海隣寺坂(おっぺし坂)
田町商店街から市役所に上る坂道は、坂上に海隣寺があったことから海隣寺坂と呼ばれている。またこの道路は旧成田街道で当時荷車が上れないので、後押し(おっぺす)人夫がいたことから、おっぺし坂といわれている。現在の市役所の下にあり、成田街道が台地上の町へと上る坂です。街道筋の要地として、当時は木戸があり土手、竹矢来で守られていました。
こちらの町が両町。向こう側は、片町。橋の名前が両町橋。
外堀は現在、道路の関係上、「くの字」に曲がっているが、江戸時代は直線であった。
史跡 市営菖蒲園跡の碑
右が現在の鹿島橋。手前の岸から旧橋が架けられていた。水位が低い時に、橋の杭がみえる。
旧成田街道
現在の鹿島橋
鹿島川、上流をみる
旧成田街道
馬頭観音
八代佐倉藩主、当時11万石、堀田正信は(万治3年、1660年)老中の政治を弾劾し幕府に諫書を提出し無断で、ただ一騎佐倉城に駆け帰った。しかし角来八幡神社下にさしかかった時、馬が疲れ果て倒れ息絶えた。80年後堀田正亮のとき延享3年、碑を建て、馬を供養したといわれている。
角来馬頭観音の由来
時は第4代将軍家綱の初期である。佐倉城主堀田上野介正信は老中松平伊豆守信綱の消極的な政治を弾劾し、万治3年(1660)10月8日、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き、只一騎佐倉城に馳せ向かった。そして、角来の八幡神社の前に差し掛かったとき、疲れ果てた馬はついに倒れて息絶えたという。正信の諫書は認められず、江戸を無断で退去した罪により所領10万石は没収された。その後佐倉惣五郎伝説に付合して人々は怨霊の祟りによって正信は発狂しこの挙に及んだものであると噂した。
それから86年経った延享3年、正信の弟正俊を初祖とする第五代堀田相模守正亮(後に11万石老中筆頭となる)は山形から佐倉に転封となった。その8月初めて佐倉城に着任した日だった。角来の八幡神社の前に差し掛かると一人の老人が現れ、正亮の馬の手綱を持って大手門まで案内した。ところが、家臣の目にはその老人の姿は見えなかったのである。不審に思った正亮は家臣の者達に色々と尋ねたところ、一人の老臣が「それは正しく惣五郎の亡霊であろう」と答えた。正亮は「万々この理なき事なり」と笑っていたが宝暦年間に惣五郎を将門山の口之明神に祀り毎年2月と8月に盛大な祭典を行なった。この角来馬頭観音も、そのとき倒れた馬の供養の為、正亮が建立したものと伝えられている。
(佐倉市文化財審議会委員長 青柳嘉忠)
八幡神社(角来)
祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)、創祀年代は明らかではないが、元禄16年(1703)に本殿、拝殿、鳥居を改築したことが正徳5年記(1714)当社縁に記されている。 古今佐倉真佐子には「坂の上に赤塗り、木の鳥居があります」と記されている。 八幡様は勉学、創業の神として後には軍神として崇拝され、源氏の氏神と記されている。
八幡神社から歴博、佐倉城址公園方面をみる
吉川英治の母の生家
初代臼井町長山上辨三郎邸跡辨三郎の息女いくは、国民文学の父といわれる吉川英治の母であり娘時代をこの地で過ごした。
吉川英治の歌碑
【吉川英治と佐倉】「萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな 高きを忘れただぬくもれり」 1934年(昭和9)年箱根に遊んだときに詠んだ歌である。母いくは1921(大正10)年、英治29歳の時亡くなった。作家吉川英治、本名英次(ひでつぐ)は、1892(明治25)年8月11日現在の横浜市に生まれた。江原台自治会館前(江原台1丁目9の4)に「初代臼井町長山上辨三郎(やまがみべんざぶろう)邸跡」と刻まれた碑が建っています。いくは、佐倉藩士山上辨三郎の3女で国民文学の父といわれる吉川英治の母で、娘時代をこの地で過ごした。明治の娘のゆかしさは失っておられなかったやさしい母でした。いくの墓は、横浜市の蓮光寺にある。 代表作『宮本武蔵』は朝日新聞夕刊に1935(昭和10)年8月23日から連載され完結したのは、1939(昭和14)年7月11日でした。
大雄寺
黄檗宗の禅寺。江戸時代中期の佐倉の風俗、町並み等を書いた「古今佐倉真佐子」にも登場する。かつては「大応寺」とも書かれたようである。
佐倉ふるさと広場
鹿島川が印旛沼にながれこむ景勝地の一帯を、平成4年9月『佐倉ふるさと広場』と命名されました。平成6年には佐倉市制40周年を記念しオランダ風車リフーデ(友愛)が誕生,日本初の水汲み型風車で目印にもなっています。そばの印旛沼の自然,サイクリングロードと美しいロケーションがひらけている広場です。 毎年4月に開催される「佐倉チューリップ祭り」は平成元年に 日蘭修好380周年を記念して設けられ,まつりが開催される様になりました。また夏には「佐倉・国際印旛沼花火大会」が盛大に催され、秋になるとオランダ風車の回りはコスモスで覆われ、四季を通じて市民の憩いの場となっています。
飯野竜神橋
印旛沼龍神伝説
天平三年(七三一年)、その夏はことのほか暑く、水不足となった。 時の聖武天皇の命により、龍閣寺の釈命上人(しゃくみょうしょうにん)が雨乞い祈祷を行うと、印旛沼の主の小竜が、大竜に殺される事を承知でその願いを聞き入れ、七日七晩、雨を降らせてくれた。雨が上がった後、沼のほとり三ヶ所で、分断された竜の死体がみつかり、上人は竜との約束どおり、頭を龍閣寺に葬り、寺の名を龍角寺と改めた。また腹部は現在の本埜村に、尾を八日市場市にある寺に手厚く葬られ、それぞれ龍腹寺、龍尾寺と名付けられたと伝えられている。
この竜神伝説にちなんで、「竜神橋」と名付けられ、口からは火ならぬ、水を噴き出しています。
吉川英治の歌碑
【吉川英治と佐倉】「萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな 高きを忘れただぬくもれり」 1934年(昭和9)年箱根に遊んだときに詠んだ歌である。母いくは1921(大正10)年、英治29歳の時亡くなった。作家吉川英治、本名英次(ひでつぐ)は、1892(明治25)年8月11日現在の横浜市に生まれた。江原台自治会館前(江原台1丁目9の4)に「初代臼井町長山上辨三郎(やまがみべんざぶろう)邸跡」と刻まれた碑が建っています。いくは、佐倉藩士山上辨三郎の3女で国民文学の父といわれる吉川英治の母で、娘時代をこの地で過ごした。明治の娘のゆかしさは失っておられなかったやさしい母でした。いくの墓は、横浜市の蓮光寺にある。 代表作『宮本武蔵』は朝日新聞夕刊に1935(昭和10)年8月23日から連載され完結したのは、1939(昭和14)年7月11日でした。
内郷社協ミニハイクに参加して
佐倉市内郷社会福祉協議会主宰で、年1回行っている、佐倉市内ミニハイクに参加した。メンバーは同じ町内会のメンバーが多く、私は今回初めての参加でしたが和気あいあいのミニハイクでした。今回、吉川英治、お母さんの実家(佐倉市江原台)があった碑を通り、印旛沼を背景した吉川英治がよんだ碑を見て通るコースであった。途中、印旛沼環境フェアも開催されていた。てみじかな所に、文学的な巨匠のふるさとがあったのだと再認識した。